第七章 日本の挑戦
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第七章 日本の挑戦

インディ500は黎明期から国際色豊かでした。1911年の初開催は欧州にも伝わり、翌年からチャレンジャー達が渡米してくるようになりました。大きな市場であるアメリカのビッグイベントを制し、世界的な名声を掴むため、多くの挑戦者達が海を渡りました。1913年の第3回目のレースでは、決勝出走27台のうち3分の1以上を欧州勢が占め、初めてアメリカ人以外でインディ500の勝利を手にしたのはプジョーに乗ったフランス人ドライバーのジュール・グー(Jules Goux)でした。以後、1916年にはイタリア生まれのイギリス人ドライバーで、イギリス人として初めてダリオ・レスタ(Dario Resta)が優勝。それ以外の国については、だいぶ間が空いて89年にブラジル人のエマーソン・フィッティパルディ(Emerson Fittipaldi)が優勝、1990年にはオランダ人として初めてアリー・ルイエンダイク(Arie Luyendyk)が優勝しました。

日本人の挑戦は、1990年代に始まりました。先鞭をつけたのは、ヒロ松下(松下弘幸)でした。アメリカのフォーミュラ・アトランティック・シリーズ・ウェストで1989年にチャンピオンとなった彼は、1990年にはインディ500のルーキーテストだけをまずはパスし、インディーカーシリーズを1シーズン戦い、十分にマシンに慣れたところでインディ500への挑戦に踏み切りました。1991年、予選24位だった松下は初めてのインディ500で16位という結果を残し、その後も決勝に3回出場し、1995年には自己ベストとなる10位でのゴールを記録しました。

ドライバーとしての出場は、ヒロ松下が最初でしたが、実は、ライディング・メカニックとして1930年代にインディ500に出場した日本人がいました。タケオ・ヒラシマ。チックやチキーといった愛称で親しまれた彼は、1935年と1936年のポールシッター、レックス・メイズ(Rex Mays)のマシンに乗っており、1937年には予選で最速スピードを記録したジミー・スナイダー(Jimmy Snyder)のライディング・メカニックを務めました。(インディ500のルールに従い、ポール・ポジションは予選初日に最速だったビル・カミングスが獲得)助手席で燃料ポンプやエンジン調整を担当するライディングメカニックは、1930年から37年までは必須とされ、1938年に義務が解除されると、どのチームもメカニックは同乗させませんでした。したがってヒラシマは、ライディング・メカニックの最後の3年に大きな足跡を残したことになります。その後も彼のエンジニアとしての成功は続きました。


1935年、メイズの助手席でライディング・メカニックを務めるタケオ・ヒラシマ
1935年、メイズの助手席でライディング・メカニックを務めるタケオ・ヒラシマ

ヒラシマは、1946年に優勝したジョージ・ロブソン(George Robson)の中心的クルーでもありました。

そして1960年、ヒラシマはクルーチーフとしてジム・ラスマン(Jim Rathmann)を優勝させたばかりか、歴史に残る熾烈なバトルの末に2位でゴールしたロジャー・ウォード(Rodger Ward)のエンジンを組み上げたのも彼でした。

1962年のレースでも、ヒラシマが組み上げたエンジンが1位と2位を独占しました。優勝はウォード。2位はレン・サットン(Len Sutton)で、ヒラシマはサットンのクルーチーフも務めていました。カリフォルニアに移住した日本人の中には車好きが多く、技術を学び、腕を磨いた彼らは、全米の注目を集めていたビッグレースへと引き寄せられていったのでした。

日本人ドライバーに話を戻すと、松下の後には、松田秀士、桃田健史、服部茂章、ロジャー安川、高木虎之介、中野信治、松浦孝亮、武藤英紀らがインディ500に挑戦していきました。2003年に高木は予選7位から5位フィニッシュする素晴らしいレースを戦い、日本人初のルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。翌2004年には松浦が予選9位/決勝11位で同じくルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝きました。

2010年には佐藤琢磨がインディ500にデビュー。2012年には優勝争いを演じ、2017年に日本人初、そしてアジア人初のインディ500ウィナーとなりました。そして2020年、コロナ禍で延期され、8月に無観客で行われたレースで佐藤は2回目のインディ500優勝を達成しました。


“今度勝った時は”と3年前にファンと約束した“グリコポーズ”を取る佐藤(2020年)
“今度勝った時は”と3年前にファンと約束した“グリコポーズ”を取る佐藤(2020年)

日本メーカーの挑戦

日本の自動車メーカーによるインディ500参戦は、1994年のHondaが最初でした。1986年のインディ500ウィナー、ボビー・レイホール(Bobby Rahal)率いるチームとともにフルシーズン参戦をスタートさせ、インディ500への初めての挑戦を行ったのですが、この年は予選を通るのに十分なスピードが出せず、レイホール・ホーガン・レーシング(Rahal Hogan Racing)はスポンサーに配慮して、シボレー(Chevrolet)・エンジンにスイッチして決勝へと進出しました。Hondaのインディ500決勝への出場は翌年に持ち越されました。

1994年の1シーズンだけでHondaとレイホール・ホーガン・レーシングは共闘体制を解消。1995年のHondaは新興チームのタスマン・モータースポーツ(Tasman Motorsports)と戦う体制を敷きました。ドライバーのラインアップは、カナダのスコット・グッドイヤー(Scott Goodyear)と、ブラジルのアンドレ・リベイロ(André Ribeiro)。2シーズン目を迎えたHonda・インディV8エンジンはパワーアップを果たしており、グッドイヤーが予選3位でフロントローのグリッドを獲得。ルーキーのリベイロも予選を12位で終えました。

レースではグッドイヤーがトップで終盤戦に突入。しかし、ゴールまで残り11周でリスタートが切られる際、先頭を走っていたグッドイヤーはコース上でペースカーを追い越し、ペナルティの対象となって優勝を逃しました。

その後インディカーがCARTとIRLの2シリーズに分裂し、HondaはCART側に参戦したため、1996年から2002年までインディ500に出場しませんでした。2003年に参戦を再開し、初優勝を2004年に達成しました。ウィニングドライバーはバディ・ライス(Buddy Rice)で、マシンはパノスGフォース(Panoz G-Force)/Honda。彼を走らせたのは、1994年に一度Hondaと袂を分かった後に体制変更し、2003年から再びHondaとタッグを組んでいたチーム・レイホールでした。この前年の2003年、トヨタが日本メーカー最初のインディ500ウィナーとなりました。

Hondaは翌2005年、ダン・ウェルドン(Dan Wheldon)がダラーラ(Dallara)IR-05/Hondaでインディ500優勝。2006年からのインディ500は、Honda・エンジンのワンメイクが6年続いたため、Hondaは8連勝。複数メーカーの参戦が実現した2012年もダリオ・フランキッティ(Dario Franchitti)(ダラーラDW12/Honda)が勝ち、2004年から9連勝。その後は、2014年にライアン・ハンター-レイ(Ryan Hunter-Reay)がHondaエンジンで優勝し、2016年にアレクサンダー・ロッシ(Alexander Rossi)、2017年に佐藤琢磨、と2連勝。2020年にもう一度、佐藤琢磨が勝利を飾り、2021年にエリオ・カストロネベス(Hélio Castroneves)、2022年にはマーカス・エリクソン(Marcus Ericsson)と3連勝。そして、2025年にもアレックス・パロウ(Alex Palou)が優勝。Hondaのインディ500での勝利は16回となり、トップのオッフェンハウザー(Offenhauser)の27回を追う歴代2位につけています。

1996年にIRLがスタートし、CARTとIRLの2シリーズが共存していた時代、1997年に日産がインフィニティ・ブランドでIRLへの参戦を始めました。当初はオールズモビル(Oldsmobile)、後にシボレーと戦った彼らは、2002年までの6シーズンでインディ500以外のレースで2勝を挙げました。

インフィニティはトップカテゴリーでの活動中だった2002年にインディカーへの登竜門シリーズ(現在のインディNXT)に3.5リッター自然吸気V8エンジンの供給を開始し、それを2005年まで続けました。

日本のブリヂストンがインディカーシリーズへの挑戦を始めたのは1995年でした。1911年の第1回インディ500優勝車に装着されていたのはファイアストン・タイヤで、1920年から1966年までの43連勝を含む48勝を記録していたのですが、彼らは1974年をもってプロフェッショナルレースから撤退。1980年代にファイアストン・タイヤを傘下に収めたブリヂストンは、アメリカ最高峰モータースポーツへ伝統のタイヤブランドを復活させることとし、1970年代半ばからインディカー用タイヤの単独供給を行なってきていたグッドイヤーにチャレンジしました。5シーズンに渡った激闘の末、グッドイヤーが1999年シーズンをもって撤退。2000年からはファイアストンが単独サプライヤーとなり、25年以上を経た現在もインディ500を含むシリーズ全戦で出場全車へのタイヤ供給を続けています。


【トリビア:スピードウェイにまつわるエピソード】

12. Hondaの参戦

インディ500へのHondaの参戦は、1994年のレイホール・ホーガン・レーシングへのエンジン供給よりも早く、実は1987年のギャレス・レーシング(Galles Racing)が最初のパートナーとも言えます。彼らはマーチ87Cにブラバム・ジャッド(Brabham-Judd)・Hondaエンジン、排気量2.65リッターのターボチャージャー付きV8を搭載した2台をエントリーしており、そのエンジンのヘッドカバーにはHONDAの文字がありました。ドライバーはジャック・ブラバム(Jack Brabham)の息子ジェフ(Geoff)とルーキーのジェフ・マクファーソン(Jeff MacPherson)。マクファーソンが予選12位から8位でフィニッシュし、ブラバムは予選14位/決勝24位という結果でした。

文:天野雅彦


HONDAロゴの入ったマシンとジェフ・マクファーソン(1987年)
HONDAロゴの入ったマシンとジェフ・マクファーソン(1987年)