
インディ500は、創設者たちの描いた夢の通りに、世界をリードする技術競争の場となり、二度の世界大戦の影響で中断した計6回を除いて110年以上に渡り開催され続けています。そして同時に、エンターテインメントとしても大きな成功を収め、30万人以上の観客を集める世界最大規模の野外スポーツイベントとなっています。
100年を超える歴史の中で、開催が見送られたのは6回だけです。第一次世界大戦中の1917年と1918年、第二次世界大戦中の1942、43、44、45年はインディ500の開催は見送られました。しかし、それ以外の年は、1911年の初開催以来、同じコースでレースは行われています。パンデミックにより8月にレースが延期された2020年を除けば、決勝は毎年5月のメモリアルデイ(戦没者追悼記念日)かメモリアルデイの前後に開催されています。ちなみに2020年は佐藤琢磨選手の二度目のインディ500制覇の年で、この年はコロナ禍の為に延期され、無観客で8月の開催となりました。これが歴史上唯一の5月以外での決勝開催です。2009年にはインディアナポリス・モーター・スピードウェイ開場100年を迎え、2011年がインディ500初開催から100周年、そしてガス欠でエンジンが止まったアレクサンダー・ロッシ(Alexander Rossi)選手が無音でゴールインした2016年が第100回目のインディ500レースとなりました。

インディ500の決勝に出場できる台数は最大33台です。それ以上のエントリーがある場合は、予選で落とされます。しかし、いつも33台以上のエントリーがあったわけではありません。第2回目の開催だった1912年に、この33台ルールはすでに設定されていましたが、その年にスピード規定をクリアして決勝出場を認められたマシンは24台だけでした。
第一次世界大戦が始まったことが影響し、ヨーロッパからのエントリーが激減。アメリカ国内からのエントリーも減りました。軍への自動車供給が優先され、1916年のレースにはインディ500史上最少の21台が出場するにとどまりました。1912年には33台を決勝参加台数のMAXとするルールが制定されましたが、実際に33台によるレースのスタートが切られたのは、第一次大戦直後の1919年が最初でした。その後は1927年に33台が埋まるまで出場台数は33台を下回りました。
インディ500の決勝は第1回は火曜日、第2回は木曜日に行われました。今は5月の最終月曜日と定められているメモリアルデイですが、当時は曜日に関わらず5月30日にメモリアルデイが固定されていたからです。
1915年は5月30日のメモリアルデイが日曜日に当たったため、レースはその前日の29日に行われる予定でした。ところが、予定の29日の2日前から大雨が降り、2日遅れの5月31日にレースは開催されました。これが史上初めての雨天順延でした。
超高速での連続走行となるオーバルレースは、雨天では開催できません。インディ500の長い歴史の中では雨天順延を余儀なくされたことがあります。1967年、レースは18周を走ったところで雨によりストップ。翌日に残り周回数分のレースが行われました。
1973年は、日曜日のレース・スタート直後に多重事故が発生。再スタートを切る前に雨が降り出し、月曜、火曜も雨で、レースが再開されたのは5月30日の水曜日。レース中にまた雨が降り出し、332.5マイル(535.1km)でレース成立となりました。
1986年5月25日の日曜日に開催される予定だった第70回インディ500は、雨で翌月曜日に延期され、その日も雨に見舞われたことから次の週末の土曜日、5月31日に行われました。1997年の5月25日も雨。レースは翌月曜にスタートが切られましたが、15周で雨によりストップ。翌火曜日、5月27日に500マイル(805km)の戦いは終わりました。
雨によるレース短縮はこれまでに7回ありました。1926年が最初で、160周でレース成立。1950年は345マイル(約555km)、1973年は332.5マイル(約535.1km)、1975年は435マイル(約700km)、1976年は最短となる102周の255マイル(約410km)、2004年は450マイル(約724km)、そして、2007年は415マイル(約668km)でゴールとなりました。

インディ500は、ひとつのレースでありながら、約1ヶ月に及ぶ長いイベントとされていることも大きな特徴です。まだ自動車の誕生から時間の経っていない時代に始まり、急速な進歩を遂げて行く中、500マイル(805km)の長距離レースを戦うためには、入念な調整や練習走行が必要とされたのです。プラクティスは5月に入るや始められ、レースが行われる月末まで、約1ヶ月に渡る準備時間が与えられます。
第1回、第2回のレースでは予選が行われず、エントリー順がそのままスターティンググリッド順になりました。その後の2年はグリッドをくじ引きで決め、1915年に初めて予選が行われるようになりました。この時のタイムは1分31秒00。平均時速は98.900mph(159.164km/h)でした。1920年からは1周のタイムではなく、4周連続周回(距離10マイル(16km))の平均速度で争われるようになりました。今もインディ500の予選は4周の連続走行で行われていますが、1933年から1938年までの6年間だけは、予選は10周、25マイル(約40km)の平均スピードで争われ、その後、1939年に元の4周連続形式へと戻されました。
1946年に第二次大戦後最初のインディ500が開催された時、プラクティスは戦前の慣例の通りに5月1日に開始されました。予選は5日間行われるスケジュールが組まれましたが、雨などにより、最終的に8日間に渡る予選となりました。
1950年代の初頭まで、予選は雨の影響を受けた場合などに、多い時には7日間に渡って開催されたこともありましたが、1952年から2週末、4日間のスケジュールとされるようになりました。ただ、この当時はメモリアルデイが毎年の5月30日と曜日に関わらず日付で決まっていたため、時には決勝がウィークデイのこともあり、予選終了から決勝までのインターバルが一定ではありませんでした。このため、1週間以上の8日間になる時も、3日間という短さになることもありました。それが、1970年代に入ってメモリアルデイが5月の最終月曜日とされ、直前の土曜、日曜がメモリアルデイ・ウィークエンドとなり、月曜までが3連休とされました。そして、1974年からインディ500は3連休の真ん中の日曜日にレースを開催するようになり、現在に至ります。
予選の初日はポールポジションを決定する日であり、ポール・デイと呼ばれていました。インディ500では、レース開催期間中の早い段階でスピードを出すことに価値を認めており、予選2日目に初日の記録を上回ってもポールポジションは得られないことになっていました。
予選最終日はバンプデイと呼ばれ、出場33枠に入るための戦いが繰り広げられました。33番目のスピードを保持している者を、それより速いスピードを出した者が弾き出される(バンプされる)ことから、この名前が付きました。
そうした伝統は、現在も部分的ではありますが、保たれています。現在のルールでは予選が2日間で、1日目に速く走れないとポールポジションを争う権利を得ることができないようになっています。1日目の最速12人は、2日目に行われる予選(Top12 Qualifying)で6人に絞り込まれ、最終段階(Fast Six)でポールポジションからの6グリッドを競い合うフォーマットが採用されています。残りの6人は第二段階での順番がグリッドになります。そして予選1日目に13〜30番手だったドライバーたちは、その順位がそのままスターティンググリッドとして決定し、31番手以降だったドライバーたちは、2日目に最後列のグリッド3つを争うタイムアタックを行います。グリッド数を上回るエントリーがあれば、バンプアウト合戦が行われることになります。
予選が1週末の2日間に短縮されたのは、1998年からです。1996年にインディカーは2シリーズに分裂し、インディ500をカレンダーに組み込んだのはインディ・レーシング・リーグ(IRL)の方でしたが、資金豊富なチームが少なく、参戦費削減の為に日程の大幅短縮が断行され、予選は2週末4日のフォーマットから、半分の1週末2日間になりました。
インディカーの2シリーズへの分断後の統合も含め、インディアナポリス・モーター・スピードウェイは、経営者たちが敏腕を振るうことで長い歴史を歩んで来ています。
最初のオーナーは4人組でしたが、その中心的人物であったカール・フィッシャーこそが、大型のレーシングコースが自動車の発展に寄与することを確信してスピードウェイ建設に踏み切った、先見の明の人でした。彼は多くの観客を集めてレースを興行としても成功させました。フィッシャーは1924年、他のビジネスに傾注するため、スピードウェイ社長のポジションを創業メンバーのひとりであったジェイムズ・アリソン(James Allison)に譲りました。
1927年、創業オーナーグループから、第一次大戦で戦闘機パイロットとして活躍した元インディ500ドライバーのエディー・リッケンバッカー(Eddie Rickenbacker)がスピードウェイを購入しました。リッケンバッカーはレース自体を活気づけ、アメリカの自動車メーカーの進歩と繁栄を鼓舞しようとレギュレーションを書き換え、コースの近代化に努めました。1937年にはコーナー部分をアスファルト舗装に変え、1940年には、ストレート以外のすべてをアスファルト舗装にしました。
第二次大戦が始まると、アメリカではレースが禁止になり、インディアナポリス・モーター・スピードウェイのゲートには鍵がかけられました。戦争中の4年間でブリックヤードが荒廃したのは、レースやイベントを行えない状況下では仕方のないことでした。
リッケンバッカーが荒んだコースを手放すことを決意し、ブリックヤードは存続の危機に晒されましたが、そんな時にモータースポーツの聖地を引き継ぎ、それを立て直そうと立ち上がったのが、インディアナ州出身のアントン・“トニー”・ハルマン(Anton “Tony” Hulman)でした。
バイタリティ溢れるビジネスマンであったハルマンが先頭に立ち、レーシング・コースを覆っていた雑草や苔は短期間で取り除かれ、ブリックヤードが再び清潔で高貴な風貌を取り戻しました。ハルマンの情熱と、莫大な投資によって、伝統あるコースの再興が成りました。
その後の驚くべき発展も、インディ500が再び世界中で知名度を高めることとなったのも、ハルマンの功績です。彼はアイデアマンで、スピードウェイの社長兼ジェネラルマネジャーに、インディ500で三度優勝し、その名をアメリカ中に轟かせているウィルバー・ショウ(Wilbur Shaw)を起用しました。伝統あるレースの価値を高め、世界にそれを伝える術を見抜く才能をハルマンは備えていました。彼がオーナーとなって最初のレースは1946年の第30回インディ500でしたが、戦争が終わった翌年の開催でありながら、エントリーは大量58台を数えました。そして、1948年には80台がエントリー。予選を通過できないマシンの方が多くなったほどでした。

1953年には82台がエントリー。その後もコンスタントに50台、60台を集める盛況が続きました。多くのマシンが作り出す競争の激しさは、そのままインディ500というレースの人気を高めました。この頃、ビル・ブコビッチ(Bill Vukovich)、ロジャー・ウォード(Rodger Ward)、AJ・フォイト(A.J. Foyt)、パーネリ・ジョーンズ(Parnelli Jones)らのスタードライバーも登場。毎年5月に行われるビッグレースは、長い伝統で人々の敬意を集めるものとなり、アメリカを代表するイベントとして定着していきました。
史上最多のエントリーは、1984年の117台。実はインディ500では、レースにエントリー登録するのはドライバー名ではなく、チーム名とレースカーのカーナンバーです。この頃は1人のドライバーに対してスペアカーを何台も用意する参戦スタイルが一般的になっており1984年に出場意思を持ったドライバーは60人以下であったのに対し、エントリーされたマシンは、それに比べて遥かに多くなっていたのです。
“ブリックヤード”がその歴史を人々にいつまでも強く訴えることができるよう、コースのスタート/フィニッシュラインには、第1回インディ500の時代に敷き詰められたレンガ(ブリック)が、1ヤードだけ残されることになりました。これもハルマンのアイディアでした。
レース前のセレモニーで“バック・ホーム・アゲイン・イン・インディアナ”が初めて歌われたのも、ウィナーがミルクを飲むのが恒例化したのも、ハルマン時代の初年度だった1946年でした。

1977年にハルマンは逝去。後を継いだのは、彼の孫であるアントン・ハルマン・“トニー”・ジョージ(Anton Hulman "Tony" George)でした。
1979年にはシリーズに出場するチームのいくつかがCART(Championship Auto Racing Teams)を設立し、独自のシリーズをスタートさせました。インディカーは、USAC主催シリーズと、このCARTシリーズの二つが存在することとなり、1985年にはCARTシリーズだけが存在する状況となりました。
1996年、今度はジョージがインディ・レーシング・リーグという新シリーズを発足させ、二度目のインディカー分裂時代が訪れました。アメリカのトップ・オープンホイールが二度目の一本化を果たしたのは、2008年の春でした。
トニー・ハルマンから孫のトニー・ジョージへ。第二次大戦後にインディアナポリス・モーター・スピードウェイとインディ500を、格式高い存在へと引き上げたのがハルマン一族でした。その彼らが2019年、施設、レース、インディカーシリーズのすべてをロジャー・ペンスキー(Roger Penske)に譲り渡すことを発表し、翌2020年に譲渡が完了しました。アメリカで50年以上に渡ってトップレベルのレーシングチームを率いてきたペンスキーが、伝統あるスピードウェイ、そしてインディカーレースの未来を担うこととなったのです。
11. 勝者は一人だけ
ほとんどのモータースポーツでは、オリンピック同様、1位から3位までの勝者が表彰台にあがり、祝福されます。しかし、インディ500ではレース後に祝福されるのは優勝者1名のみです。優勝したマシンをビクトリーレーン(Victory Lane)と言われるチェッカー模様の場所に置き、そこに優勝ドライバーとチームが集い、少し離れた場所からカメラマン達が写真を撮ります。2019年まではVictory Laneは地面にありました。2017年の佐藤琢磨選手の最初の優勝時もこの方式でした。
2020年にコロナ禍で8月に順延された無観客開催のインディ500では、カメラマン達との距離を保つため、高い位置にクレーンでマシンを吊り上げ、ドライバーの廻りに集まれるチームクルーや関係者も厳しく人数が制限されました。佐藤琢磨選手の2017年の優勝写真と2020年のグリコポーズの優勝写真とでアングルが大きく異なるのはこのためです。勝者は優勝した一人だけ。インディカーシリーズの中でもインディ500のみの伝統です。
文:天野雅彦