
インディカーとF1はまったく別のもの。最近の人々はそう感じていることでしょう。しかし、インディ500がF1世界選手権のひとつに数えられていた時期がありました。それはF1が始まった1950年から1960年までの11年間でした。
1950年に始まったF1は、すでに1911年からの長い歴史を持っていたインディ500を取り込むことで、世界選手権として世界的・国際的なステイタスを向上させることが可能と考えたのでした。アメリカという大きな市場を取り込むことへの意図もあってのことでしょう。
シリーズの1戦にはなりましたが、F1のレギュラー選手たちが渡米してインディ500に参戦することは、ほとんどなく、僅かな例があったものの成功しませんでした。1952年、アルベルト・アスカーリ(Alberto Ascari)がV12エンジン搭載のフェラーリでインディ500にエントリーしてきましたが、予選は19位。レースでは序盤に上位を走るも、ワイヤーホイール破損により40周でリタイアを喫しました。フェラーリとしてインディ500決勝に出走したのは、この1952年が唯一の例となっています。
インディカー側からF1選手権に挑戦するケースも、ひとつしかありません。その1952年のレースで勝ったトロイ・ラットマン(Troy Ruttman)が、フランスのF1レースに遠征したのでした。しかし、アメリカの自分のマシンを送り込んでの参戦ではなく、マセラティ(Maserati)を走らせるプライベート・チームからのものでした。

F1ドライバーのインディ500挑戦は、1960年代になって始まりました。1961年、ジャック・ブラバム(Jack Brabham)がクーパー/クライマックス(Cooper/Climax)で挑戦したのが最初で、予選13位/決勝9位という結果でした。ライバル勢のエンジンがオッフィー(Offy)4.1〜4.2リッターと大排気量だったのに対し、クライマックスは2.8リッターだったため、パワー面で不利だったようです。
翌年1962年は遠征者なしでしたが、1963年はジム・クラーク(Jim Clark)がロータス29/フォード(Lotus29/Ford)で出場し、予選5位から2位フィニッシュしました。クラークに33秒84差で勝ったのは、アメリカ製シャシーとエンジンのワトソン/オッフィー(Watson/Offy)を駆ったアメリカ人ドライバーのパーネリ・ジョーンズ(Parnelli Jones)でした。ロータス・ワークスから出場のもう一人、ダン・ガーニー(Dan Gurney)は予選12位/決勝7位と今ひとつ振るいませんでした。
1963年のフォードのインディ500用エンジンは、4.2リッターの排気量を持ち、これに対抗するオッフィーも同排気量でした。
翌1964年、ロータスのワークスであるクラークがPP獲得。しかし、レースはタイヤトラブルにより、早々にリタイアとなりました。ロータス・ワークスから2年連続出場のガーニーは、予選6位から17位フィニッシュという結果でした。ロータス29でプライベート参戦したボビー・マーシュマン(Bobby Marshman)は、予選2位と大活躍したのですが、レースはトラブルにより序盤でリタイアでした。
1961年にクーパー/クライマックスでインディ500を経験していたジャック・ブラバムは、オリジナル・マシンであるブラバムBT12/オッフィーを持ち込みましたが、予選25位/決勝20位。この年、アメリカ製ミッドシップマシンが早くも登場。ロジャー・ウォード(Rodger Ward)の乗ったワトソン/フォードが、予選3位から決勝2位でゴールと奮闘しました。勝てはしませんでしたが、ミッドシップの優位が明確になって来た時代で、33台中の12台がすでにミッドシップになっていました。アメリカ製ミッドシップマシンもワトソン(Watson)、ボルステッド(Vollstedt)、ハフェイカー(Huffaker)、トンプソン(Thompson)、ハリブランド(Halibrand)というバラエティがありました。
ミッドシップマシンの最初の優勝は1965年でした。60年からF1に参戦していたジム・クラークがロータス38でインディ500で優勝したのです。続く1966年にはグラハム・ヒル(Graham Hill)がローラ/フォード(Lola/Ford)で優勝と、グランプリ・ドライバー達がインディ500で2連勝しました。1966年の2位はクラークだったのでF1ドライバーによるインディ500の1-2フィニッシュだったことになります。

ジャッキー・スチュワート(Jackie Stewart)は1966年の6位がベスト(ローラ/フォード)です。モナコGPで優勝し、その直後にインディに乗り込んだスチュワートでしたが、勝利は一緒に遠征したヒルのものとなりました。1967年にもインディに出場したスチュワート。その年は予選29位で決勝リタイアと、この後三度もF1チャンピオンになるドライバーですが、インディでは本領を発揮し切れませんでした。
1970年のF1ワールドチャンピオンになるヨッヘン・リント(Karl Jochen Rindt)も、1967年は予選32位/決勝リタイアで、1968年は予選16位/決勝リタイアと、インディ500の2.5マイル(4.02キロ)オーバルでは目立った成績を残すことができませんでした。
1970年代もF1ドライバーはコンスタントにインディ500挑戦を行いました。目立ったパフォーマンスは、1983年のテオ・ファビ(Teo Fabi)のデビュー年PP、ロベルト・ゲレーロ(Roberto Guerrero)の4年連続トップ5フィニッシュ(1984年/決勝2位、1985年/決勝3位、86年/決勝4位、1987年/決勝2位)。そしてエマーソン・フィッティパルディ(Emerson Fittipaldi)の1988年の2位と、続く1989年の優勝、さらには1993年の2勝目。この1993年には元F1ドライバーが8人も出場し、ナイジェル・マンセル(Nigel Mansell)が3位で、ネルソン・ピケ(Nelson Piquet)は32位でした。1995年も8人。クリスチャン・フィッティパルディ(Christian Fittipaldi)が2位。エリセオ・サラザール(Eliseo Salazar)が4位。1998年にはエディ・チーバー(Eddie Cheever)(アメリカ人)が優勝しました。
2015年は、F1からストックカーを経由してインディカーに戻ってきたファン・パブロ・モントーヤ(Juan Pablo Montoya)が優勝。2016年にはアレクサンダー・ロッシ(Alexander Rossi)(アメリカ人)が優勝。
2005、2006年F1ワールド・チャンピオンのフェルナンド・アロンソ(Fernando Alonso)は、2017年にF1モナコGPを休んでインディ500にエントリーしました。世界三大レースと言われるF1モナコグランプリ、ルマン24時間、インディ500を制覇したグラハム・ヒルに続く史上二人目のトリプル・クラウンを目指しての挑戦を行なったのです。マクラーレン・ホンダ・アンドレッティ(McLaren Honda Andretti)からの出場で、アロンソは予選5位から優勝争いに加わったのですが、マシントラブルでリタイア。勝ったのはチームメイトで、やはり元F1ドライバーの佐藤琢磨でした。
アロンソは2018年にル・マン24時間レースで優勝。トリプル・クラウンに王手をかけ、2019年のインディ500に二度目の挑戦をしました。マクラーレンからのエントリーでしたが、この年には予選落ちを喫しました。F1チャンピオンとF1のトップ・チームをもってしても、予選通過すら果たせないケースが起こり得る。それがインディ500の難しさです。2020年、アロンソはアロウ・マクラーレンSP(Arrow McLaren SP)から三度目のインディ500挑戦を行いましたが、予選26位、決勝21位。依然としてトリプル・クラウン達成は果たせていません。
1970年代から、インディ500の予選とモナコGPが、同じ週末に重なってしまうことが起こるようになりました。
グラハム・ヒルの時代には、インディとモナコの日程が重なっておらず、双方出場が可能でした。そのことにも助けられ、彼は現在、史上ただ一人のトリプル・クラウン達成者(モナコGP、ル・マン24時間、インディ500で優勝)です。

マリオ・アンドレッティ(Mario Andretti)はF1とインディカー、両シリーズへの出場を60年代と70年代に何度も果たしました。マリオのインディ500優勝は1969年。その年のモナコGPは欠場しました。1978年にはF1ワールド・チャンピオンに輝いたマリオ。第二章のトリビア編でもご紹介したとおり、その年のインディ500には出場しましたが、予選は代役を起用し、マイク・ヒス(Mike Hiss)がマリオのマシンで予選8位となりました。モナコから戻ってきたマリオは、ドライバー交代のペナルティを受け、最後尾33番手グリッドからスタートし、レースの結果は12位でした。インディでは伝統的に予選を通るのはマシンであって、ドライバーではありません。予選を通ったマシンに、予選とは違うドライバーが乗ることは問題ありません。ただし、ドライバー交代をした場合には、グリッドは最後尾に下がるのがルールです。
10. 代役
インディ500ではドライバーではなく、マシンがエントリーする方式の為、予選のドライバーと違うドライバーが本戦を走ることがあります。2009年には、ブルーノ・ジュンケイラ(Bruno Junqueira) はスポット参戦ながら予選を通過したところ、フルシーズンを戦うチームメイトが予選落ちを喫したため、彼にマシンと決勝出場権を譲り、レースへの出走ができませんでした。
ジュンケイラはその2年後、もっと厳しい経験をさせられました。その年もスポット参戦だった彼は、予選通過したマシンを他チームのドライバーに譲ることとなったのです。彼を走らせていたAJ・フォイト・レーシング(A. J. Foyt Racing)が、レースへの出場権をアンドレッティ・オートスポート(Andretti Autosport)に売却しました。予選を通れずにいたアンドレッティのレギュラードライバーであるライアン・ハンター-レイ(Ryan Hunter-Reay)を出場させるためでした。チーム内だけでなく、別のチームとのドライバー交代さえも起こり得るのがインディ500です。
2023年、予選終了の翌月曜日に行われたレース向けのプラクティスでステファン・ウィルソン(Stefan Wilson)(ドレイヤー・レインボールド・レーシング(Dreyer & Reinbold Racing)/キューシック・モータースポーツ(Cusick Motorsports))がクラッシュ。背骨を傷めて決勝出場が不可能となりました。ここで代役として起用されたのは、別のチームで予選を通過できていなかったグラハム・レイホール(Graham Rahal)(レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(Rahal Letterman Lanigan Racing))でした。
文:天野雅彦