第一章 壮大なるレーシングコースの建設 ——インディアナポリス・モーター・スピードウェイの誕生
INDYCAR
Feature

第一章 壮大なるレーシングコースの建設 ——インディアナポリス・モーター・スピードウェイの誕生

自動車産業の黎明期とひとりの先見者

実用的な自動車の登場は、西暦1900年の少し前でした。五大湖による水運や鉄道という物流網があり、鉄鋼業も盛んなアメリカ中西部には、自動車産業の先駆者を志す者たちが集まり、100社を超すメーカーが興され、新たな基幹産業への大きな飛躍を果たそうとしていました。そんな中でインディアナ州は、ミシガン州デトロイトとともに自動車産業の中心地と呼ばれました。

そこに登場したのが、カール・フィッシャー(Carl G. Fischer)という人物でした。自動車用ヘッドランプの製造業で成功した彼は、「もっと速く、もっと高性能な自動車を生み出すためには、高速で走ることのできるコースが必要だ」と閃きました。先見性と実行力を兼ね備えた彼は1909年2月、同じく自動車産業で活躍していた3人、ジェイムズ・アリソン(James A. Allison)、フランク・ウィーラー(Frank H. Wheeler)、アーサー・ニューバイ(Arthur C. Newby)を同志として、インディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)建設計画をスタートさせました。



夢を実現させたハイスピードコースの誕生

ヨーロッパではA地点からB地点までのタイムを競う都市間レースが盛んでしたが、アメリカでは各地の競馬場を利用したレースが人気を博していました。そんな中、フィッシャーたちは自動車レース専用のレーシングコースを計画したのです。時代がスピードを追求できる自動車用サーキットを求めていることを、彼らは見抜いていました。レースだけでなく、自動車開発のためのテストコースとしても高い価値を持つハイスピードコースでした。

より速く、より遠くへ――人類の本質的な欲求であるスピードを探求できる、それまでにない規模の自動車サーキットを創設するという壮大な構想を打ち立てたフィッシャーたちは、インディアナポリスに格好の土地を見つけると、すぐさま建設に取り掛かりました。

コース全長は、それまでのレーシングコースの常識を打ち破る2.5マイル(約4.02キロ)に決定。形状は四隅を丸めた長方形で、四つのコーナーを持つレイアウトとされました。コーナーにはマシンの旋回を助けるバンク(傾斜)が設けられました。

全長2.5マイルのオーバルコースを造るには、広大な敷地が必要です。さらに長いコースも検討されましたが、観客席のスペースなどを考慮し、最終的にこの距離に決まりました。長方形の長辺にあたるメインストレートとバックストレートは8分の5マイル(約1キロ)。南北に位置する短いストレートはショート・シュートと呼ばれ、ターン1〜2間のものは南側にあることからサウス・シュート、ターン3〜4側はノース・シュートと、現在でも呼ばれています。コース幅はストレートが50フィート(15.2メートル)、コーナー部は60フィート(18.3メートル)と、余裕を持たせた設計となっていました。



「ブリックヤード」の由来と伝統の継承

スピードを追求するコースとして、フィッシャーたちはインディアナポリス・モーター・スピードウェイを硬い舗装で覆うことを決めました。素材には砕石とタールを固めたものが採用され、1909年8月12日にコースは完成。1週間後には早くも最初のレースが開催されました。時代の最先端を行く高速コースに集まった観客は12,000人。2周(5マイル)のスプリントレースではルイス・シュウィッツァーが平均時速57.4マイル(約92.4km/h)で勝利を収めました。

このレースを含む複数のレースが3日間連続で開催されましたが、急造で十分な強度が確保できていなかったのか、レース中に舗装が崩壊し事故が発生しました。剥がれた舗装は走行中のマシンによって巻き上げられ、観客席にも飛び込む危険な状況となりました。これを受け、フィッシャーたちは安全確保のため、コース全域を320万個のレンガ(ブリック)で覆うことを決断。1909年12月、スピードウェイはレンガ敷きのコースとして再び完成しました。このことから「レンガ敷きの土地」を意味する“ブリックヤード”というニックネームが生まれ、現在でも使われています。

現在のスピードウェイはアスファルト舗装ですが、1936年〜1938年にコーナー部分が段階的にレンガから変更され、39年以降、直線部分もアスファルトに置き換えられていきました。今でも建設当時のレンガは一部に残されており、第二次世界大戦後にオーナーとなったトニー・ハルマン(Tony Hulman)のアイデアにより、スタート/フィニッシュラインには1ヤード(約91cm)にわたってレンガが残されています。


2017年、フィニッシュラインのブリックを通過する佐藤琢磨
2017年、フィニッシュラインのブリックを通過する佐藤琢磨

この残されたレンガ部分に、インディ500のウィナーがレース後にキスをするのは有名な伝統ですが、実は比較的新しい習慣です。始まりは1996年、ストックカーのレースでデイル・ジャレット(Dale Jarrett)とクルーチーフのトッド・パロット(Todd Parrott)が行ったものが最初とされています。インディカーでは2005年のダン・ウェルドン(Dan Wheldon)が初めて実施。現在ではドライバーだけでなく、オーナーやクルー、その家族も参加する一大セレモニーとなっています。



ダウンフォースが大きかった1990年代には、マシンが“ヤード・オブ・ブリックス”を通過する際、爆発音のような大きな音が発生していました。あまりの速度のため、視覚で捉えるタイミングより遅れて音が届く現象も見られ、光と音の速度差を体感できる興味深いシーンとなっていました。


【トリビア:スピードウェイにまつわるエピソード】

1. 最初のイベントは「熱気球レース」

実は、この広大なコースで最初に行われたイベントは自動車レースではありませんでした。1909年6月、コース完成を広く知らせるためのプロモーションとして開催された「熱気球レース」でした。完成2か月前の開催でしたが、コース内に3,500人以上、周辺には40,000人が集まり、狙い通り大きな宣伝効果を生みました。

2. 隠された小川「イーグルクリーク」

スピードウェイのインフィールドには、かつて「イーグルクリーク」という小川が流れていました。1909年にレーシングコースが建設された際、まず最初に行われたのは、メインストレートとサウス・シュートの間をくぐる堅牢な水路を造ることでした。ターン1の内側を横切っていた小川は、2000年からのF1 USGP開催のために建設したロードコースにより地表からは見えなくなりましたが、メインストレートのグランドスタンド裏を歩くと、今もその水路の面影を見ることができます。

3. 創業の父たちのその後

カール・フィッシャー:1923年にインディアナポリス・モーター・スピードウェイ社長職をジェイムズ・アリソンに譲り、マイアミのリゾート開発や中西部とフロリダを繋ぐフリーウェイ建設など、地域開発の先駆者として大きな足跡を残しました。

ジェイムズ・アリソン:設立した技術開発会社は、アリソンの子孫によってトランスミッションメーカーとして成功を収め、今もスピードウェイのすぐ南に拠点を構えています。

フランク・ウィーラー:現在のボーグ・ウォーナー社(BorgWarner)の礎となる彼の会社はキャブレター製造から始まり、他社と合併して業務を拡張していきました。

アーサー・ニューバイ:彼が立ち上げた自動車メーカー「ナショナル・モーター・ビークル・カンパニー(National Motor Vehicle Company)」は、第2回インディ500で優勝を果たすなど輝かしい功績を残しました。しかし、その後は他社との合併がうまくいかず、1924年に乗用車の生産を終えました。

4. 「世界の自動車レースの首都」

国家としての歴史の短いアメリカ合衆国ですが、自動車レースと飛行機の歴史では世界を牽引してきた先進国です。その国の自動車レースの中心地であるインディアナポリス・モーター・スピードウェイは、「The Racing Capital of the World(世界の自動車レースの首都)」という名称を商標登録しています。また、「The Greatest Spectacle in Racing(レースにおける最も偉大なスペクタクル)」というフレーズも同様です。これらは現在も、インディ500とIMSの歴史と伝統を象徴する言葉として使われています。

文:天野雅彦