第四章 インディ500は自動車技術の進化論的系譜
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第四章 インディ500は自動車技術の進化論的系譜

インディ500の歩みには、自動車技術の進歩と変遷が凝縮されています。出場マシンのバラエティの豊富さには驚くべきものがあり、世界のサーキットレースの中でも最も速いこのレースで走る為に、あらゆる技術が試され、淘汰され、また新しい形態が生まれました。それは生物の進化にも似た進化論的な技術淘汰の系譜なのです。

1913年に行われた第3回目のインディ500のウィナーは、フランス人ドライバーのジュール・グー(Jules Goux)と、フランス車プジョー(Peugeot)でした。そのマシンに搭載されていたエンジンは、DOHCの直列4気筒で、1気筒あたりに4つのバルブを備えていました。排気量こそ7.3リッターと現代の常識とは大きくかけ離れていますが、今の自動車に使われていても何らおかしくない、とても高度な技術が盛り込まれていました。

このフランス製エンジンを手本にして生まれ、インディ500を席巻したのがオッフェンハウザー(Offenhauser)こと通称オッフィー(Offy)でした。プジョーのエンジンをメンテナンスしていた技術者のフレッド(Fred)・オッフェンハウザーが、その設計の素晴らしさに感銘を受け、当時の最先端をいくレーシングエンジンを製作しました。オッフィーの名がインディ500のエントリーリストに初めて登場したのは1935年でしたが、そのレースでウェッテロス/オッフィー(Wetteroth/Offy)に乗ったケリー・ペティーロ(Kelly Petillo)がいきなり初優勝。オッフィーが最後にインディでのレースを戦ったのは1981年でしたから、実に40年以上という長い期間に渡って最前線で活躍しました。1950年からは破竹の15連勝を飾り、インディ500での優勝は27回を数えました。時代によって変化するレギュレーションにも対応し、改良が重ねられたオッフィーは、1954、1955、1959、1960年にはインディ500出場33台すべてに搭載されました。ベースの設計が優れており、高圧縮比化や、スーパーチャージャーやターボチャージャーの追加装備をも受け入れるタフさがありました。また、コンパクトな4気筒であったことから、リヤにエンジンを積むミドシップマシンが主流になっても使われ続けた傑作エンジンでした。


ウェッテロス/オッフィー(1935年)
ウェッテロス/オッフィー(1935年)

レギュレーションも技術とともに変わってきています。1911年の第1回目のレースは、排気量が9,832cc以下というルールでしたが、1913年の第3回からは7,374cc、1915年には4,916cc、1920年には3,000ccというように、エンジン排気量の上限は、スピードが上がるに連れて小さくされていきました。1926年からの4年間は、史上で最も排気量の小さい1,500ccまでのエンジンでインディ500は争われました。排気量が制限されるのに呼応し、過給エンジンが1924年に登場。1927年には早くもインタークーラーも登場しています。

 シリンダーの数やレイアウトも、あらゆるものがトライされています。1919年にはフランスのバロー(Ballot)が直列8気筒マシンを登場させ、デトロイトのパッカード(Packard)はV型12気筒で初参戦を果たしました。1927、1928年は出場33台、全車が直列8気筒でした。1930年にはイタリアのマセラティ(Maserati)がV16エンジンを積んだティーポV4・セディチ・チリンドリ(Tipo V4 16 Cilindri)を投入し、1931年にはスティーブンス・ウィペット製シャシーにデュレイ製の独創的な2ストローク・スーパーチャージャー付きU型16気筒エンジン(並行な直列8気筒エンジンが一本のクランクシャフトを共有する極めて珍しいレイアウト)を載せたマシン、スティーブンス・ウィペット/デュレイ(Stevens Whippett/Duray)がエントリーされました。

オッフィーの登場により、直列4気筒が主流を占める時代はとても長く続きました。エンジンサイズのルールが非過給4,200〜4,500cc、過給2,650cc辺りで安定し続けていたからでもあります。

一番アメリカらしく、アメリカ人が最も愛しているV8エンジンですが、インディ500でポピュラーになったのは、意外にもそれほど昔ではなく、1963年からでした。4気筒オッフィーの全盛期が長く続き、1962年は出場33台のうちの32台がオッフィーでしたが、1963年にロータス29がフォードV8を積んで出場(Lotus 29/Ford)。1964年には直列4気筒のオッフィーが23台で最多エンジンだったのですが、1965年には、V8が最多の19台に増え、その大半を占めたフォードのエンジンが、ジム・クラーク(Jim Clark)のロータス39/フォード(Lotus 39/Ford)をトップにレースの1位から4位を独占し、トップ10に7台を食い込ませました。

1976年、アル・アンサー(Al Unser)の乗ったパーネリVPJ6B(Parnelli VPJ6B)によってインディ500に初登場したターボチャージャー装備V8のフォード・コスワースDFX(Ford Cosworth DFX)は、1979年には20台の一大勢力となり、1981年には33台中の29台を占めました。この年、オッフィーのインディ500出場車が初めてゼロになりました。1960年代まで隆盛を極めたオッフィー4気筒エンジンはフォード・コスワースV8に取って代わられたのです。

燃費の良さが特徴のディーゼルエンジンも、早くからインディ500に登場しています。1931年のデューゼンバーグ/カミンズ(Duesenberg/Cummins)が最初で、500マイルを無給油で走り切って世間を驚かせました。1934年にはスーパーチャージャー付きも現れましたが、ディーゼルの優勝はとうとう達成されませんでした。唯一のポールポジションは、1952年にフレッド・アガバシアン(Fred Agabashian)が、排気量6600ccという大きなディーゼル・ターボ・エンジン搭載のKKシャシー(KK/Cummins)で獲得しています。

スーパーチャージャーは、第11回目の1923年にメルセデス・ベンツが初めて採用と、かなり早い段階で登場し、1924年にはデューゼンバーグ・スペシャルが直列8気筒スーパーチャージャー付きエンジンを搭載して優勝しました。

ターボチャージャーは、1952年のKK/カミンズ(KK/Cummins)が最初で、ディーゼルエンジンに装着されてインディ500デビューを果たしました。ガソリン・エンジンのターボによる過給は1957年のKK/ノーヴァイ(KK/Novi)が最初になります。

インディ500の歴史の中でも最もユニークなマシンは、1967年に登場したガス・タービン・カー、グラナテッリ(Granatelli)が投入したSTPパクストン・ターボカー(STP-Paxton Turbocar)です。飛行機用のエンジンであるプラット&ウィットニー(Pratt & Whitney)製のガス・タービンが自動車に搭載されました。オッフィーの直4ターボやフォードV8、ウェスレイク(Weslake)のストックブロックV8の全盛期に突如現れたガス・タービン・カーは、デビュー戦で圧倒的な速さをみせ、優勝を目前にしながら残り4周でトランスミッションのベアリングが壊れるトラブルに見舞われリタイアしました。しかし、翌年にはガスタービンエンジンへの大幅な吸気制限がなされて戦闘力を失い、たった2年で姿を消してしまいました。



グラナテッリ/プラット&ウィットニーと、そのエンジン(1967年)
グラナテッリ/プラット&ウィットニーと、そのエンジン(1967年)

インディカーといえば今はエンジンがコクピットの真後ろにあるミッドシップレイアウトが常識ですが、1911年から約50年の間の主流は、フロント・エンジン/リヤドライブでした。そんな中、1925年にミラー(Miller)が前輪駆動マシンを登場させました。1928、1929年は前輪駆動マシンが史上最も多かった年となり、12台もが決勝を走りました。量産車ベースではないレーシングカーで前輪駆動レイアウトは稀有ですが、ドライブシャフトやリヤデフが後部にないため前面投影面積を少なくし空力特性を向上させたり、重心を下げられるなどのメリットがあったようです。一方、前輪駆動の特性である発進時のトラクション低下や、ハンドリングへの影響は、一度走りだしてしまえばほぼ全開状態が続き、またステアリング舵角が少ないインディ500では大きな問題にはなりませんでした。そして、1930年にビリー・アーノルド(Billy Arnold)の乗ったサマーズ/ミラー(Summers/Miller)が前輪駆動マシンとして初優勝を記録し、前輪駆動マシンはその後に1932、1934、1947、1948、1949年と全部で6勝を挙げています。


1925年に2位でゴールしたデイブ・ルイス(Dave Lewis)の前輪駆動ミラー
1925年に2位でゴールしたデイブ・ルイス(Dave Lewis)の前輪駆動ミラー

四輪駆動は1933年にミラー(Miller)がインディ500に初めて導入しました。四輪ディスクブレーキは、四輪駆動マシンへの導入をきっかけに開発が進みました。

各シリンダーのマルチバルブ化、ツインプラグなどの技術も、インディ500では古くからトライがなされました。さらにユニークな技術も試されてきています。直列4気筒エンジンの2基架けや、マシンの前後に1基ずつのエンジンを載せ、それぞれが二輪を駆動する全輪駆動(1948年Fageol Twin Coach Special)も試されました。

1952年にポールポジションを獲得したディーゼルマシンのKK/カミンズ(KK/Cummins)は、コクピットがマシンの中央より右側(コースの外側)に造られ、エンジンは寝かせて搭載されていました。そして、後輪を駆動するプロペラシャフトは、コクピットの左側を通されていました。それ以前のマシンは、エンジンとコクピットがマシンの中心線上にあり、プロペラシャフトがドライバーのシート下を通されていたため、マシンの全高が高くならざるを得なかったのですが、ドライバーの横を通す構造とされたことにより、ボディの高さを低く設計できるようになりました。

左コーナーしかないインディアナポリス・モーター・スピードウェイのオーバルで行われるインディ500では、左コーナリングに特化した技術が導入され、進歩が重ねられました。

1963年にイギリスからインディ500へと初めて乗り込んで来たF1グランプリ・チームのロータスは、F1マシンをベースとしたインディ500用マシンのロータス29でマシン右側(コース外側)にマシン左側(コース内側)より長くサスペンション・アームを前後ともに装備していました。高速コーナリング中に外側へ働く遠心力に対抗すべく、マシンの重心が内側に来る設計としたのでした。エンジンをコクピットの後方に搭載(ミッドシップ)しているためにアメリカでは”リヤ・エンジンド・カー”と呼ばれたマシンは、翌1964年にはロータス34へと進化し、更に改良の施されたロータス38によって1965年にインディ500初制覇を達成しました。

1964年にスモーキー・ユニック(Smokey Yunick)という自動車レース界の奇才が持ち込んだハースト・フロア・シフト・スペシャル(Hurst Floor Shift Special)は、マシン中央部が燃料タンクで、エンジンはその後部に搭載。ドライバーが乗るコクピットはサイドカーのようにマシンの左側に取り付けてあり、サイドワインダー、カプセル・カー、ポッド・レーサーなどのニックネームを冠せられました。ドライバーの乗るコクピットをマシン本体から独立させ、左側のタイヤの間にマウントするという実にユニークなコンセプトは、マシン前後の重量配分をレースを通して安定させ、しかも、重心が常にイン側に保たれることを狙ったものでしたが、予選最終日の予選アタック中にスピン、クラッシュして決勝進出はならず。翌年にはドライバーの安全確保に心配があるため、ルールでカプセル型のコクピットが禁止になり、このマシンの出場はできなくなりました。また、前述の1967年のガス・タービン・カーは、逆にコクピットが右側にレイアウトされ、平行にガス・タービン・エンジンを左側に搭載していました。


ハースト・フロア・シフト・スペシャル(1964年)
ハースト・フロア・シフト・スペシャル(1964年)

タイヤのサイズを左右で違えるスタッガーという特別なノウハウもインディ500では用いられています。アウト側である右のタイヤを大きくすることで、マシンが自然と左に曲がって行くのを助ける技術は、オーバルレース全般でトライされて来て、現在のインディ500の場合、右のリヤ・タイヤの円周が左よりも3分の1インチ(約8.7mm)ほど大きくされています。なお、インディカーの場合、タイヤ・サイズに違いが持たされるのはリヤ・タイヤだけで、フロントは左右同一サイズとされています。

インディ500の歴史の中でも大きな転機といえるのが、ヨーロッパからグランプリマシンが乗り込んできた時でした。エンジンをコクピット後方に搭載したミッドシップマシンは、現在のインディカーの原形と呼ぶべきもので、その最初の登場だったジャック・ブラバムが駆るクーパーT54/クライマックス(Cooper T54/Climax)は、4.1リッターの大排気量車に対し、2.8リッターという小さなエンジンながら、9位でフィニッシュしました。

翌々年の1963年にはロータスが参戦してきました。しかし、F1ドライバーとF1チームがやって来たからといって、アメリカのインディカー勢が簡単に打ち負かされたわけではありません。最初の挑戦でのロータス勢は、ジム・クラークが予選5位/決勝2位で、ダン・ガーニー(Dan Gurney)は予選12位/決勝7位でした。

翌1964年、ロータス29の進化版であるロータス34(Lotus 34/Ford)に乗ってクラークがポールポジションを獲得。しかし、レースはタイヤトラブルにより早々にリタイアしました。もう1台のワークス・ロータス34に乗ったガーニーは予選6位から17位でのフィニッシュでした。この年にはジャック・ブラバム(Jack Brabham)が彼のチームのオリジナルマシンであるブラバムBT12/オッフィーを持ち込みましたが、予選25位/決勝20位と不発に終わっています。代わりにアメリカ製ミッドシップマシンが早くも登場し、奮闘を見せました。ロジャー・ウォード(Rodger Ward)の乗ったワトソン/フォード(Watson/Ford)が予選3位/決勝2位という結果を残したのです。

F1では1958年にマシンのミッドシップ化が始まり、欧州勢は改良を重ねたミッドシップマシンでインディ500に乗り込んできたのですが、勝利が達成されたのは、初登場から5年目の1965年で、クラークがロータス38/フォード(Lotus38/Ford)で優勝を飾りました。

その前年の1964年には、ミッドシップ・マシンが12台に増えていました。アメリカ製もワトソン(Watson)、ボルステッド(Vollstedt)など数種類が作られ、33台の決勝出場車中の21台を占めました。翌1965年、ミッドシップマシンは27台にもなり、1966年にはフロントエンジンのマシンは1台のみの決勝出走となりました。2.8リッター・ターボのオッフィーを搭載したワトソン・シャシーは、予選も決勝も31位と、もはや高い戦闘力は備えていませんでした。フロント・エンジンのマシンによる決勝出場は、1968年にジム・ハーチュビス(Jim Hurtubise)が走らせたマラード・オッフィー(Mallard/Offy)が最後です。

実は、インディ500には、これよりも随分と前からミッドシップマシンが出場していました。最初の”リヤ・エンジン・カー”としてブリックヤードに姿を見せたのは、1937年のマーモン(Marmon)製16気筒エンジン搭載車でしたが、マシン整備が思うように行かず、予選出走を果たせませんでした。1939年の、リヤに過給機付き直列6気筒エンジンを搭載したミラー(Miller)が、インディ500に出場した最初のリヤ・エンジン・カーでした。そして、それはインディ史上最初の四輪駆動マシンでもあり、野心的な技術の塊でしたが、47周目でリタイアしました。1949、50年にはラウンズ・ロケット(Rounds Rocket)というミッドシップにオッフィーを搭載したマシンもありました。なお、全輪駆動は1969年のレースを最後に禁止され、今に至っています。


リヤ・エンジンのミラー・スペシャル(1939年)
リヤ・エンジンのミラー・スペシャル(1939年)

1970年代に富士スピードウェイでF1イン・ジャパンが開催された頃、F1でセンセーションを巻き起こしたのが6輪車のティレル(Tyrrell)P34でした。インディ500でも同じアイディアがトライされていました。ティレルよりずっと前、1948年と1949年にパット・クランシーKK/オッフィー(Pat Clancy KK/Offy)という6輪車が走っていたのです。ただし、ティレルP34では前輪が四つでしたが、パット・クランシー・スペシャルは後輪が四つでした。1948年に12位で完走。メカニズムが複雑でマシンが重くならざるを得ず、ストレートで遅かったようです。


パット・クランシーKK/オッフィー(1948年)
パット・クランシーKK/オッフィー(1948年)

このように、インディ500には生命の進化の如く、様々な形態のマシンやエンジンが表れては消え、淘汰されながらスピードを増して来たのです。同じ場所、同じコースで連綿とレースを続けることができたおかげで、人々は技術の進化、進歩を目視し、同時体験ができました。インディ500は単なるエンターテイメントではなく、技術を研鑽する場であり続けました。そこには、「レースは走る実験室」というHondaの考えに通ずるものがあります。

新技術を世に発表する晴れ舞台でもあったのがインディ500で、今でも毎年、最善の技術に賞が授けられています。ルイス・シュウィッツァー賞(Louis Schwitzer Award)です。スピードウェイでの最初のレース(第1回インディ500)が開催される前年の1910年8月に行われた5マイルのレースのウィナーの名が冠してあります。

1967年に設立された賞を最初に受け取ったのは、アンディ・グラナテッリ(Andy Granatelli)でした。彼がインディ500に投入した、STP-パクストン・ターボカーに対して賞は贈られました。ホンダの技術者たちも、2004年にHI4R-Aエンジン、2011年に安全性を向上させた給油システム、2025年のハイブリッドシステム開発で同賞を受賞しています。


【トリビア:スピードウェイにまつわるエピソード】

9. インディ500と燃料の変遷

インディ500で使用される燃料は、時代と共に変わって来ました。

1964年、Honda創業者の本田宗一郎も観戦したインディ500では、2周目に複数台を巻き込む大クラッシュが起こり、ガソリン燃料が引火、結果として二人が亡くなりました。1965年にガソリンからメタノールへと変更がなされたのは、こうした火災による危険を減らすために、発火しにくいアルコール系燃料が採用されたのです。しかし、アルコールの火は青白くて、日中だと目に見えません。万一引火した場合は、大きな動作で引火したことを周囲に知らせる必要がありました。

2006年、インディカーシリーズはアルコール燃料の成分をメタノール100%から、メタノール90%とエタノール10%の混合へと変更しました。1シーズンの後、2007年にはほとんどがバイオエタノールであるE98(エタノール98%に変性剤2%を加えたもの)が使い始められました。

2012年にはE85(エタノール85%とガソリン15%の混合)へと変更し、2023年には、さとうきびの廃材などを原料とする新生代バイオエタノールをベースとする100%サステナブル燃料へと移行しました。燃料についてはF1よりも先進性があると言えるかもしれません。

文:天野雅彦