
現在のインディ500は、コーションの長さにもよりますが、たいてい500マイル(805km)を3時間弱で走り切ります。1911年の第1回インディ500では平均時速74.602マイル(120.060km/h)で、同じ500マイルにかかった時間は現在の倍以上の6時間42分8秒でした。それは、いまでいう耐久レースの世界でした。また、4つのコーナーと直線から成るレイアウトは、自動車レースのサーキットというより、自動車メーカーが耐久試験を行うテストコースに近いレイアウトです。世界のサーキットレースの中で、最も速度の速いインディ500の歴史は、自動車が長距離を走り得る極限のスピードへの挑戦の歴史でもありました。
第1回ウィナーのレイ・ハルーン(Ray Harroun)は28番手と後方からのスタートでした。予選はなく、決勝に出場するためには4分の1マイル(約402m)のメインストレートを時速75マイル(121km/h)以上で走る能力が必要と規定され、46台が集まり、40台が決勝レースに臨みました。グリッドはエントリーの早いもの順で決定。スタート時の小さな距離の差を気にする人がいなかったのですから、のどかなものでした。カーナンバーもエントリー順と同じとされました。
インディ500のスターティンググリッドといえば、3台ずつ11列というのが伝統となっています。しかし、第1回のグリッドは5台×8列に加えて、最後尾に1台だけの列がありました。最後尾が1台の列だったのは、フロントローの出走車4台のイン側に主催者のカール・フィッシャー(Carl Fisher)の運転するペースカーがいたからです。
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第1回の優勝車は、インディアナ州の自動車メーカー(ノーダイク・アンド・マーモン社(Nordyke and Marmon Company))の送り込んだマーモン・ワスプ(Marmon Wasp)でした。黄色をメインに黒のトリミングが施されたカラーリング。見るからにWASP、英語のスズメバチで、つけられたニックネームがそのままエントリー名に採用されました。ドライバーのハルーンは、マーモン社のエンジニアで、彼の乗った一人乗りの特製マシンは、自身が設計したものでした。この時、シングルシーターは1台だけ。他のマシンはすべて複座(二人乗り)でした。当時のレースカーはメカニックが同乗して、燃料ポンプの操作やエンジンの調整を担当しつつ、後方から追ってくるライバルを監視するのが常識だったのです。

ハルーンは一人乗りで軽量であることを優位とすべく安定したペースを保ち、タイヤを労りながら周回を重ねて行きました。その結果、ピットストップ回数を少なくした上、交換したのも右リヤ・タイヤだけだったことから、ピットで過ごす時間を圧倒的に短くでき、勝利を掴みました。この第1回のレースでは、40台中の12台が500マイルを走り切りました。(完走扱いは計26台)
ハルーンの1人乗りマシンの出場は、ライバル勢から批判を浴びました。ライディング・メカニックを乗せないと、後方からのマシンの接近をチェックするなど、安全のための対策ができない、というのがその理由でした。そこでハルーンはマーモン・ワスプのコクピットのすぐ前にステイを立て、後方を目視で確認するための鏡を設置することで、ライバルたちの苦情を封じ込め、レース主催者の説得にも成功しました。実はこれが自動車に付けられた最初のリヤビューミラー、つまりバックミラーとなりました。バックミラーはレースでより速く走るための軽量化の策として生まれたのです。
ワスプは一人乗りマシンではありましたが、一人だけで6時間42分8秒を走ったわけではありません。実はリリーフドライバーが起用され、200周のうち30周ほどを担当しています。最初のインディ500ウィナーとしてハルーンの名は世に知れ渡っていますが、彼の優勝を助けたリリーフドライバーの名前は結果表に記されていません。マーモンが待機させていたサイラス・パチュケ(Cyrus Patschke)というドライバーで、彼は5位でゴールした2シーターのマーモンでもリリーフドライバーを務めました。
第2回インディ500は、前年より21分ほど短い6時間21分06秒でゴールを迎えましたが、ナショナルに乗って優勝したジョー・ドーソン(Joe Dawson)も第1回優勝者のハルーンと同じく、リリーフドライバーを起用しました。長時間にわたり、マシンの限界に近いスピードで走り続けるのは至難の業です。500マイルを一人で走り切って優勝するドライバーは第3回の1913年に誕生しました。フランス人ドライバーのジュール・グー(Jules Goux)は、ピットストップのたびにシャンパンで喉を潤して優勝へと走り切ったのです。
2年連続でアメリカ車、それも地元インディアナ州のメーカーのマシンが優勝していましたが、第3回はフランスのプジョー(Peugeot)が優勝マシンとなりました。

インディ500に参戦するドライバーやチームの動機の一つが並外れて高い賞金額です。第1回インディ500の賞金総額は、当時としては破格の27,550ドル。ウィナーのハルーンに贈られた賞金は14,250ドルでした。当時は500マイルのフルディスタンスを走り切らないと賞金は出ませんでした。アメリカでは、「お金はニュースになる」と言われます。インディ500は賞金の大きさでも話題を作り続けています。高い賞金額が、世界中から腕に自信のあるドライバーや、マシンを引き寄せてきました。賞金総額は1946年に10万ドル、1964年に50万ドル、1970年に100万ドルに届きました。さらに、1982年に200万ドル、1988年に500万ドルを超え、2002年に1,000万ドルを突破。昨年2025年、ついに2,000万ドルをも超えました。ウィナーの賞金は、1926年に3万ドル以上、1949年に5万ドル以上となり、1957年に10万ドルを超え、1969年に20万ドル超え、1985年に50万ドル超。1989年、ついに100万ドルの壁を破りました。これまでの最高額は、2024年にジョセフ・ニューガーデン(Josef Newgarden)が獲得した428万8,000ドルです。
5. 二人のウィナー
1924年のレースでは、L.L.コラム(Corum)がスタートしたマシンをジョー・ボイヤー(Joe Boyer)が受け継ぎ、優勝しました。デューセンバーグ(Duesenberg)のエースだったボイヤーのマシンは序盤にしてトラブルで脱落したため、経験も実力もある彼にコラムの乗っていたマシンを委ねることとなったのです。そして、1941年には、フロイド・デイビス(Floyd Davis)がスタートさせたマシンに途中からモーリー・ローズ(Mauri Rose)が乗って優勝しました。これらのケースでは、スタートとゴールを別々のドライバーが担当した結果、二人ともウィナーと認められました。
6. 4人のリリーフドライバー
1950年代までは、過酷な暑さのために複数のドライバーが1台のマシンを任されることがありました。猛暑のレースとなった1954年には、アート・クロス(Art Cross)がスタートしたマシンに4人ものリリーフドライバーが次々と搭乗して5位フィニッシュ。その後もリリーフドライバーは1970年代まで存在し続け、1977年には、レースをスタートしたジョン・マーラー(John Mahler)が疲労困憊し、最後の8周をラリー・キャノン(Larry Cannon)というドライバーに委ねました。これがインディ500での最後のリリーフドライバーです。
7. 予選にもリリーフドライバー
予選においてもリリーフドライバーが起用されることもありました。1978年、マリオ・アンドレッティ(Mario Andretti)はF1世界選手権にフル出場していながら、インディ500も走ることにしました。雨でインディ500の予選の週末にF1ベルギーグランプリを戦わねばならなかった彼は、予選にリリーフドライバーを立てました。そのマシンを譲り受けての出場となったレース、アンドレッティはルールにより、最後尾グリッドからスタートして行きました。
8. ユニークな賞金
インディ500には、アイディアの国アメリカならではのユニークな賞金もあります。100マイル、200マイルといった区切りの良い距離を走った時点でトップだったドライバーに出される賞金は、1914年にはもう始まっていました。
1ラップをリードするごとに100ドルが贈られる賞金も1920年にスタートしました。
また、インディ500といえば、ウィナーが表彰式でミルクを飲むのが伝統です。1936年、インディ500での3勝目を挙げたばかりのルイ・メイヤー(Louis Meyer)に好物のバターミルクが差し出され、彼がそれを飲み、新聞に取り上げられました。ウィナーが表彰式でミルクを飲むのが恒例行事となったのは、1946年でした。第二次大戦後の初めての開催となった第30回インディ500で、新コースオーナーとなったアイディアマンのトニー・ハルマン(Tony Hulman)が、優勝者のミルク飲みにスポンサーの牛乳メーカーからの賞金をつけたのです。
しかし、長い歴史の中では、ミルクを飲まなかったウィナーもいました。
1968年に優勝したボビー・アンサー(Bobby Unser)は、暑さの中で500マイルを走り切った直後に、「ミルクは口にしにくい」と拒んだので、賞金は出ませんでした。彼はこの後に二度インディ500で勝ちますが、2勝目からは伝統を重んじてミルクを飲みました。
1993年にインディ500での2勝目を挙げた元F1チャンピオンのエマーソン・フィッティパルディ(Emerson Fittipaldi)は、ビクトリーレーンで牛乳ではなく、オレンジジュースを飲みました。オレンジ農園を経営していた彼は、自らの製品のプロモーションを行ったわけですが、伝統を軽んじる行為として、それは物議を醸しました。
流石に牛乳一瓶を飲み干すのは大変なので、一口飲んだ後は自らミルクを被る選手が多いようです。
文:天野雅彦
