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【ダカール2023特集②】ダカールラリーの歴史を5つのフェーズで紐解く

1978年から脈々と続くダカールラリー。その歴史をモーターサイクルの目線から5つのフェーズにわけて振り返ってみましょう。

【ダカール2023特集②】ダカールラリーの歴史を5つのフェーズで紐解く

ダカールラリーの歴史は1978年12月(1979年大会)から始まりました。創始者はフランス人冒険家の故ティエリー・サビーヌ氏。初期は二輪と四輪でカテゴリー分けされていただけでしたが、次第にルールや運営も確立されたものとなり、規模が大きくなっていきました。現在ではカミオン(トラック)やクアッド(四輪バギー)、UTVやSSVといった多用途四輪車のカテゴリーも誕生しています。そして参加台数も当初は二輪部門で90台でしたが回を重ねるごとに増えていき、2000年代には200台を超える台数が集まるようになりました。しかし開催地が南米に移されると参加台数は減少していき、サウジアラビアでの開催となった現在では100台前後という数に戻っています。

2023年でついに第45回大会を迎えることとなりました。しかし、ここまでの道筋はラリーさながら、一ひと筋縄ではいかないものでした。ここではそんな約半世紀にもわたるダカールラリーの歴史をいくつかの時期に分けて振り返ってみたいと思います。

1979年〜1980年 黎明期「冒険の扉が開く!」

ダカールラリーの第1回大会は1979年、この時は「オアシス・ラリー」という名称で開催されましたが、その後「パリ-ダカール・ラリー」という名称に変更され「パリ・ダカ」の愛称で親しまれるようになりました。そして1981年からはFIM(国際モーターサイクリズム連盟)公認のレースとして開催されるようになりました。

その名の通りフランスの首都・パリを出発後、およそ12,000kmを走破し、セネガルの首都・ダカールでゴールする、というコースで、途中には未開の地も多く含まれていました。特にサハラ砂漠の縦断は道中に集落などもなく、開催年によっては遭難者や死者が発生することもあり、やがてダカールラリーは「世界一過酷なレース」と言われるようになっていきました。



1981年〜1993年 ファクトリー参入期「過激化するラリー」

Hondaが初めてパリ-ダカール・ラリーに参戦したのは1981年のこと。マシンはフランスHondaからの要請で朝霞研究所がカスタムを施したXR500R。第1回、第2回大会で優勝したシリル・ヌヴー選手を含む4名をライダーとして迎え、この年Hondaは最高順位6位を記録します。しかし続く1982年の第4回大会では見事、シリル・ヌヴー選手が優勝。Hondaとして初めてのダカールラリー優勝を飾ることに成功します。



それから3年間、他メーカーの参入や排気量の大型化が進み、優勝争いは熾烈を極め、Hondaは優勝から遠ざかってしまいました。そこでHondaはパリ-ダカール・ラリーに勝つためのワークスマシンNXR750を開発。45度Vツインエンジンを搭載し、軽量かつコンパクトで最高速度は180km/h、そして何よりも信頼性の高いマシンに仕上げられました。1986年、NXR750でシリル・ヌヴー選手が優勝。Hondaはそれから1989年まで4連覇を達成すると、その後ダカールラリーから撤退しました。1980年代、Hondaはこの9年間に及ぶ挑戦で5回の優勝を獲得し、ダカール参戦で得たラリーマシンのノウハウを市販車にフィードバックしたアドベンチャーモデルXRV650 AFRICA TWINを世に送り出しました。

1986年大会では創始者のティエリー・サビーヌ氏が乗ったヘリが墜落し、還らぬ人となる事故が発生。この年は過酷なルート設定に激しい砂嵐の発生などが重なり、サビーヌ氏を含む6名の死者が出ました。さらに1991年にはコースを外れて地雷源に入ってしまい、カミオンのドライバーが爆死するといった悲惨な事故も起きてしまいます。



1994年〜2008年 ダウンサイジング期「モトクロッサーのようなマシンへ」

第1回大会から、プロトタイプクラスでは基本的に排気量やカスタムなどの制限はなく、ダカールラリーに勝つためだけに開発されたマシンが数多く参戦していました。それゆえ優勝を目指すワークスチームによる開発争いが激化した結果、エンジンの大型化が進み、給油回数を減らすために燃料タンクも大きくなり、マシンの重量と最高速度の上昇から死亡事故のリスクが高まっていきました。そこで、ダカールラリーを運営するASO(アモリ・スポル・オルガニザシオン)は死亡事故を減らすため、1994年から「参加車両を市販車ベースに限定する」というレギュレーションを設けました。

また、1992年にはルートのバリエーションを増やすためゴールがダカールから南アフリカのケープタウンに変更され、1994年にはパリを出発してダカールに到着したらまたパリに戻るコースになり、1995年にはスタート地点がパリではなくグラナダになるなど、開催年によってコースは大きく変えられました。そして2003年にはフランスのマルセイユをスタートしてエジプトのシャルム・エル・シェイクでゴールする、パリもダカールも経由しないコースが設定されたこともありました。

2009年〜2019年 南米移行期「見果てぬ大地」

また、ダカールラリーの歴史は常にテロリストや強盗などの脅威に晒されてきました。2000年には武装集団の攻撃を避けるために5日間のステージがキャンセルされ、参加者を空輸する措置も取られました。そして2008年、ルートに組み込まれていたモロッコでテロの危険性が高まり、フランス政府の要請で大会自体が中止になりました。45年に及ぶダカールラリーの歴史の中で、大会が中止になったのは後にも先にもこの1度きりです。



治安対策としてASOが出した答えは、舞台を南米に移すことでした。南米にはサハラ砂漠のような砂漠地帯が残されていたからです。この時、大会名称からついに「パリ」がなくなり、「ダカールラリー」とされました。2009年大会はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスをスタートし、チリのアタカマ砂漠を経由、再びブエノスアイレスに戻るというルートでした。それから2019年まで11年間にわたり、アルゼンチン、チリ、ペルー、ボリビアを股にかけたコースが設定されました。

レースの舞台が南米になることでテロや強盗などの脅威は減りましたが、代わりに標高の高さによる高山病がライダーを苦しめることになりました。特にボリビアのアンデス山脈を越えるルートは標高4000m超え、酸素の薄さから体調を崩すライダーも出てくるようになり、依然としてダカールラリーは世界一過酷なレースであることに変わりありませんでした。

また、2011年にはエンジンのシリンダー数にも制限がかかり、参戦できるのは単気筒か2気筒のみ、また排気量も450cc以下とされ、現在に至ります。1980年代にはスーパーカブやベスパ、セロー225(ヤマハ)などで参加するライダーも多かったことから、全体の4分の1程度だった完走台数も徐々に増えていき、2000年代にはエントリーの半数程度が完走できるレースになっていきました。



そして2013年には、Hondaが24年ぶりにダカールラリーに復帰。マシンは450cc以下に制限され、コースも南米になっており、過去の優勝経験にとらわれない、ゼロからの挑戦になりました。海外で市販していたクロスカントリー競技用マシンCRF450XをベースにCRF450RALLYを仕立て、当時ダカールラリーで無敵を誇っていたKTM打倒を掲げました。



翌年には新型CRF450RALLYをフルモデルチェンジ。より大きいエンジン出力、より良い空力性能、より高い耐久力、より優れたメンテナンス性を獲得しました。そして、いよいよ優勝に手が届いたかと思われた2017年、続く2018年、2019年も、Hondaはレギュレーション解釈の相違からくるペナルティーや、ステージのキャンセルなど、さまざまな不幸も重なり、惜しくも優勝を逃してしまいます。

なお、ダカールラリーは2019年、その歴史上初めて、国境を跨がずにペルー1国でそのルートを完結させました。そしてダカールラリーは再びその舞台を別大陸へ移すことになります。



2020年〜 サウジアラビア期「新生ダカールラリー」

2020年、ダカールラリーの舞台はサウジアラビアに移りました。2019年に続き、国境を跨がず、サウジアラビアの国内だけで完結するルートにて開催されました。



そしてHondaは2020年に念願かなってリッキー・ブラベック選手が優勝。KTMの2001年から続く18連覇という記録に、ついにストップをかけたのです。そして続く2021年はケビン・ベナビデス選手が優勝、Hondaは2連覇を果たしました。2022年にはFIMにより世界ラリーレイド選手権が発足。ダカールラリーはその開幕戦として位置付けられるようになりました。

そして2023年、次なる冒険が目前に迫っています!



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