MX2およびMXGPクラスで計5回の王座を獲得した、ティム・ガイザー。その類まれな強さの秘密に迫ります。
2024年は、ティム・ガイザーとHondaが10年にわたって築いてきたFIMモトクロス世界選手権 (MXGP) での歩みを象徴する1年となりました。常に高いパフォーマンスでタイトル争いに挑み、感動的な走りを見せてくれたガイザー。MX2とMXGPの両クラスで計5度の栄冠を手にした、この圧倒的な存在の真相と原動力に迫ります。
執筆者: アダム・ウィーラー
2024年10月6日、日曜日の午後遅く。第77回モトクロス・オブ・ネイションズが開催されたイングランド南部のマタリー・ベイズン・サーキットは、雨の霧に暗く覆われていました。シーズン最後の国際イベントとなる最終レースで、ティム・ガイザーはラストコーナー、最後の数メートル、数秒で圧巻のパフォーマンスを見せ、会場を熱狂の渦に巻き込みました。MXGP総合ランキング2位のHRCスター、ガイザーは、同じHondaライダーでAMA 450SXおよびSMXチャンピオン、ジェット・ローレンスを最後から2番目のカーブで猛然と抜き去り、2024年のフィナーレを飾るチェッカーフラッグを劇的に獲得。この日、1-1の完全勝利を達成しました。CRF450Rライダー同士の手に汗握る一騎打ちは、雨に濡れながらも総立ちとなった大観衆の前で最高の形で幕を閉じました。この偉業は、まさに彼の強靭なアスリートとしての真価を示す圧巻のパフォーマンスであり、長いグランプリシーズンと国際イベントを締めくくる最高の瞬間となりました。本シーズンでもガイザーとHRCは、この危険かつ途方もなく過酷なスポーツの頂点で、再び最高峰の基準を打ち立てたのです。
28歳のスロベニア人ライダー、ガイザーは、このイギリスでの試合で、何かしらの鬱憤を晴らそうとしていたのかもしれません。前週の日曜日、スペインで開催されたグランプリシーズン最終戦では、わずか10ポイント差で4度目のプレミアクラスの王座獲得を逃しました。3月にアルゼンチン開幕戦から始まり、全60モト、986ポイントを積み上げてきたガイザーでしたが、最終戦でタイトル獲得の夢が絶たれたのです。マタリーでは同じ思いを味わいたくないという強い決意を胸に秘めていました。
逆境を乗り越えることは、ガイザーとHRCの歩みを語る上で欠かせないストーリーの一部です。このライダーとファクトリーの絆は、MXGPシーンにおいて最も強固で長期にわたるコラボレーションの一つであり、これほど長期的な成功を収めている現役のコンビネーションは、もう1組を除いて存在しません。この結束力は他に類を見ないものです。2016年にMXGPカテゴリーに参戦してから、ケガや挫折、新星ライバルたちとの争いなど、様々な困難が立ちはだかりましたが、2013年末以来築かれてきた強固な絆によってそれらを乗り越え、トップの座に君臨し続けてきました。
「『若手ライダーを探すなら…彼しかいない』と、みんなに伝えました。」ジャコモ・ガリボルディは、明確なビジョンを持った人物です。成功した裕福なイタリア人実業家であり、モトクロスに情熱を注ぐ彼は、2000年代半ばに友人であり協力者でもあるマッシモ・カステリと共に、EMX250ヨーロッパ選手権への参戦を目指す「趣味」のチームを立ち上げました。その可能性は開花し、5年足らずでガリボルディ・レーシングはMX2パドックに進出。ガリボルディは、クリストフ・シャルリエや若きハリー・クラスといった、類まれな才能を持つティーンエイジャーたちと仕事をする経験を重ねました。そして2010年代に入ると、彼はより自律的な運営を求めてHondaとの提携を開始。この関係はその後、鋼のように強固なものとなっていきました。「最初の年は、ヨーロッパHondaと良い形で提携を結び、日本からも少しサポートを受けました。そのサポートは年々増えていきました」とカステリは振り返ります。「当時ティムは16歳で、ジャコモは常に次の若手有望株を探していたんです。」
ガイザーは、2012年のヨーロッパシーンで頭角を現した新星でした。EMX125ヨーロッパ選手権とFIMジュニア世界選手権で優勝を飾り、同年にはEMX250にも参戦。3戦中1戦で表彰台を獲得する実力を見せました。その圧倒的なスピードと競争力により、2013年にはMX2へステップアップを果たしましたが、まだ10代だった彼と家族にとって、この年は厳しい学びの期間となりました。マシンの性能や環境に不満を感じていた彼らは、契約解消の道を模索。パドック全体が、その動向に注目することになったのです。
「知人を通じて電話番号を手に入れ、2013年のシーズンが終わる頃に彼と会いました」とガリボルディは振り返ります。「初めて会った時、とても控えめで好青年だという印象を受けました。年齢の割に礼儀正しく、賢かったです。彼は学業も続けていました。これはパドックでは珍しいことでした。学業を続けることが自分にとってとても大切だと言っていました。最初の印象は本当に良いものでした。トップを目指す強い意志を持っていることは明らかでしたし、それまでのキャリアでの成績がそれを物語っていました。参戦したすべてのカテゴリーで勝利を収めていましたから。」
「毎年勝ち続けるということで、勝利というものに慣れていく。そしてその経験は、必ずMX2クラスでも生きてくるはず」とガリボルディは考えていました。
「ガリボルディと契約することを話すと、多くの人が笑いました。当時、Hondaの250ccクラスのマシンは最強とは言えなかったからです。今でも日本のスタッフとそのことを冗談で話すことがあります」ガイザーは、2024年のスウェーデンGPにて、自身の豪華な(モトクロス界の基準からすると非常に上等な)モーターホームからこのように語りました。
「なぜこのチームを選んだのか自分でも分かりません。ただ、最初の顔合わせでジャコモに感じたフィーリングがすべてだったと思います。その日のことは今でも覚えています。2013年のモトクロス・オブ・ネイションズが開催されたドイツのトイチェンタルでした。父と義母と一緒に行きました。当時はまだ17歳でした。ロジャー・ハーヴィー(元MXGP HRCジェネラルマネージャー)や日本のスタッフとも話をして契約を結びました。別のメーカーもスロベニアの私の家に来ていました。当時は祖父母も一緒に家族全員で25平方メートルのアパートで暮らしていました。自分に可能性を感じてくれていたチームは何チームかありました。2013年はとても難しい年でしたね。簡単には解消できない長期契約を結んでいましたが、その環境に本当に満足できていませんでした。自信を持てず、思うような走りもできていませんでした。」
「その年頃の選手たちには、そういう輝かしい瞬間を見せる子が多くいます」とハーヴィーは語ります。「彼らはバイクを操るあらゆるテクニックを持ち、必要なものはすべて揃っています。しかしその後、転倒を繰り返し成長できないライダーもいれば、成熟していくライダーもいます。ティムは良い可能性を秘めていると感じました。」
ティム・ガイザーとHondaのタッグは、2014年からCRF250Rと共に始まりました。その年、ガイザーはMX2クラス選手権で初めてのモト優勝(シーズン2回)と表彰台(シーズン6回)を獲得。最終的に総合5位に入りました。これはHondaにとって、2004年に同クラスが設立されて以来の最高記録でした。また、2014年はHRCがファクトリーチームとしてMXGPカテゴリーに復帰し、新しいチームとCRF450RでMXGPに参戦した年でもありました。ガリボルディ、カステリ、そしてクルーたちは、物静かなライダーの要求を満たすには、同時に彼の父・ボゴを納得させる必要があることをすぐに学んでいきました。ボゴは当時、トレーナー、メンター、アドバイザー、その他すべての役割を果たしていました。
「初めは少し困惑しましたし、やりづらさも感じました。ティムは常に後ろにいて、父親が2歩先に立っていました」とカステリは振り返ります。「しかし最終的には上手く乗り越え、良い結果を出すことができました。」
「少し奇妙なことではありました。彼 (ボゴ) は日本のエンジニアとのミーティングにも参加したがっていたし、昔はティムのマシンのあらゆるセッティングを自分が行っていたとも言っていました」とガリボルディは微笑みながら語ります。「日本のエンジニアたちは少し戸惑っていましたが、彼がそこにいることの重要性も理解したと思います。トレーニング中に彼はコース脇に立って、バイクの何が機能していて何が機能していないかを即座に見分けることができたからです。ティムが戻ってくると、彼のコメントも全く同じだったのです。つまり二人とも的確な情報を提供してくれました。」
ガイザー親子は、その勤勉な姿勢、目標への献身、そして強い意志により、勝者としての資質を示していました。ガイザーには才能があっただけでなく、困難にも柔軟に対応して乗り越えていく精神的な強さも備わっていました。「彼は痛みに耐えることができます。モトクロスでは、痛みを受け入れ、それを表に出さないことも必要なのです」当時のハーヴィーはこう語りました。
「ティムのようなライダーとの出会いは、10年に一度の奇跡です」とガリボルディは強調します。「彼のような才能を持つライダーは滅多におらず、すべての人にとって特別な存在です。」
2015年と2016年は怒涛の時期でした。イタリアのアルコ・ディ・トレントでの初グランプリ優勝、オランダGPでの初レッドプレート獲得、そしてMX2タイトル獲得。この快挙は、チーム、ライダー(スロベニア初の世界選手権者)、そして2000年以来初めてFIM世界タイトルを獲得したHondaにとって、非常に大きな節目となりました。「HRCから手厚いサポートを受けていました。マシンは日本製でしたが、当時はまだ、日本側の関与はそれほど大きくありませんでした」とガイザーは振り返ります。
ガリボルディのクルーと共に、ガイザーと彼の家族は、2016年シーズンに向けてMX2クラスからMXGPクラスへ即座にステップアップすることを決断しました。HRC体制下での「サテライト」チームとしての参戦でしたが、ファクトリーマシンを駆っての挑戦となりました。ガイザーはMX2タイトル獲得年からトレーニング用として市販仕様のCRF450Rを使用しており、その体格、筋力、テクニックから、大排気量エンジンの特性やプレミアクラスで求められる慣性力とパワーに自然と適応できると期待されていました。アントニオ・カイローリ、クレメント・デサール、そして同じHondaライダーであるゴーティエ・ポーリンといった経験豊富なライダーたちと比較すれば経験は浅かったものの、彼の適応力は高く評価されていたのです。
「プレシーズンの段階から調子が良く、テストでも速いタイムを出していたことは誰の目にも明らかでした」とガイザーは2016年を振り返ります。「当然、ラップタイムを比較する必要があり、当時HRCのゴーティエやボビー(エフゲニー・ボブリシェフ)、それに250ccクラスのライダーたちと一緒にテストをしていました。自分は常に一番早く走れていて、その差は1秒どころではなく、それ以上のこともありました。チームは自分が良い結果が出せると信じていましたし、実際にすぐに適応できました。450ccバイクで挑んだMXGPクラス初戦のカタールでは、1-1で完全勝利を収めました。」
18戦中16回の表彰台と7勝を挙げ、ガイザーはMXGPシーンに衝撃を与えました。主要な統計チャートでは、すべてにおいてリードしていました。ガイザーは、プレミアクラスのルーキーとしてタイトルを獲得した2人目のライダーとなりました (2015年にロマン・フェーブルが同じ快挙を達成)。さらに、MX2クラスとMXGPクラスのタイトルを連続して獲得した史上初、そして現在まで唯一のライダーでもあります。「素晴らしい成果でしたし、誰も私がそれを成し遂げるとは思っていませんでした」と彼は笑顔で振り返ります。「自信はすべてのスポーツにおいて役に立ちます。それに、自分にはできるという信頼と信念も必要です。そして、自分がコースで最速であることを確認できると、それがさらに自信を育て、物事が簡単に進むようになります。MXGPのワールドチャンピオンになった年は本当にあっという間に結果が出ました。私はMXGPのルーキーで、シーズンが終わる頃にようやく20歳になったばかりでした。」
若きガイザーは、まさに世界をその足元に収めたかのようでした。しかし、彼はモトクロスという競技の暗部と向き合うことになります。2017年には肩の骨折で負傷し、さらに2018年にはイタリア・マントバでのプレシーズン中に顎を骨折し、脳震盪を起こすという深刻な事故に遭いました。また、父親の影響下から抜け出したいという思いは、プレッシャーやストレスを増大させ、結果としてコース上での判断ミスにもつながっていきました。この状況は2018年にピークに達し、ガイザーはパートナーのシュペラと共に自身の生活とレジームを確立し、さらにチームとの協力体制を強めていきました。彼のレーサーとしての姿勢やスキルの裏にはガリボルディやクルーとの絆があり、あまり注目されてはいなかったものの、それは彼の成功を支えるもう一つの重要な要因となっていました。この繋がりはその後さらに強まり、長く続くことになります。2017年以降、MXGPにおけるHRCの基盤がガリボルディのチームを中心に一本化されたことで、ガイザーとの関わりはより深く、より正式な形を帯びていきました。
「キャリア初期から2018年頃まで、父が深く関わっていて、すべてを管理していました」とガイザーは振り返ります。「当時自分のすべきことは、ただ走って、トレーニングすることだけでした。しかし成長するにつれて自由が欲しくなり、自立して自分の人生を自分で決めたいと思うようになりました。その頃から、父と少しずつ距離を置くようになりました。そしてシュペラと出会い、一緒に暮らし始めました。」
「そのとき、チームの存在が大いに助けになりました」と彼は続けます。「レースにはいつも信頼できる人たちがいて、何か言いたいことや話すべきことがあれば、ジャコモやマッシモ、メカニックのニコがいました。時には、心の中に抱えている痛みを、ただ誰かに話して吐き出すことも必要なんです。」
ガイザーは、親子で築いてきた家族体制を、HRCという新たな仲間との体制に切り替えることで、彼の目標にとって健全な環境を築きました。チームが提供する安心感や確かなサポートに加え、最高の結果を追求するHRCのプロフェッショナリズムとコミットメントは、ガイザーが個人として、そしてライダーとしての天職のために求めていたものでした。この変化は、彼がキャリアの方向性を見直すきっかけにもなりました。「計画では、MX2とMXGPの両方でタイトルを獲得してから、アメリカ(AMAスーパークロスとプロモトクロス)に挑戦することになっていました。しかし、それがあまりにも早く実現してしまい、次のステップに進む準備ができていませんでした。それに、ジャコモやチームの仲間たちとは本当に素晴らしい関係を築いていたんです」と彼は語ります。「そこで十分幸せだったし、自分が本当に幸せな場所から離れるのは簡単なことではありません。それに、私は自分のベースをすごく大切にするタイプの人間です。スロベニアでは一人で、自分の施設でトレーニングをしています。何をしているのか知っているのはチームだけで、それが心地いいんです。ベルギーやアメリカでは、多くのライダーが一緒にトレーニングしていますが、自分にはそのやり方は合いません。多分、昔ながらのやり方が好きなんです!アメリカに行くという決断は、すべてを変えることを意味すると分かっていたし、20歳でその選択をするのは簡単ではありませんでした。」
ガイザーはその安定したパフォーマンスから、一気にチームと会社からの信頼を得ました。「どのメーカーやチームでも同じだと思いますが、最初は何かしらの形で実力を証明しなければなりません」と彼は語ります。「結果を出すと、少しずつ発言権が増え、チームからの信頼も得られます。なぜなら、自分が正しく取り組んでいることを彼らが理解できるからです。チームは最初、もっとイタリアやロンメルでトレーニングすることを望んでいました。しかし、1人でもしっかりトレーニングを行なっていて、レースに出るときには万全の準備ができている様子を見て、理解してくれました。そのようにして、素晴らしい信頼関係を築くことができました。トレーニングメカニックは毎回のセッションを報告してくれますし、ロジャー(テクニカルコーディネーターのロジャー・シェントン)やジャコモ、フィジオセラピストともほぼ毎日連絡を取っています。チームの誰もが、私の状況を把握しています。チームのようでもあり、家族のようでもあるんです。私たちは一緒に働き、お金を稼いでいるわけですが、仕事という感覚は全くありません!モトクロスは趣味のようなものなので、そのおかげで一層楽しいです。」
この「エンジン」は再び回転数を上げ、2019年、2020年(この時点でHonda史上最も成功したモトクロスライダーとなる)、そして2022年にさらなるタイトルを獲得しました。2021年には、イタリアでの最終戦で激しいタイトル争いを繰り広げた3人のライダーの1人として戦いました。そして2024年に、ホルヘ・プラドとの直接対決という形で、この劇的なクライマックスが再び繰り広げられました。2024年はプレッシャーと競争が渦巻く壮絶な戦いの連続でした。20戦中16回の表彰台と4勝を獲得。首位との差はわずか10ポイントという僅差の結果でした。チームは依然として問題を解決し、連携を取っていました。「私も人間なので、時々迷うことがあります。しかし、私の周りには支えてくれる人たちがいます」とガイザーは語ります。「インドネシアがまさにそうでした。最初の週末、セッティングや自分自身のコンディションにかなり苦戦していました。そこで、インドネシア2戦目の前の週にミーティングを開き、すべてを変更したんです。こんなことは自分にとって珍しいことです。普段は、テストする時間や、少なくともトレーニングセッションで試す時間が十分にない限り、大きな変更をするのは好きではありません。ですが、今回はフリープラクティスで直接試してみたところ、結果として大幅に良くなりました。より快適にバイクに乗れるようになり、ライディングはもちろん、結果も向上しました(このレースをガイザーは2位でフィニッシュ)。こうした瞬間に、支えてくれるチームがいることは大切です。勝っているときは簡単です。しかし、苦しんでいるときには周りの助けが必要です。」
2024年は、ランキング自体は2位で終わりましたが、その結果は再びガイザーとHRCのシナジーがMXGPにおいてトップクラスであることを示すものでした。また、この結果は、2023年の試練からの復活でもありました。2023年、ガイザーはプレシーズン中の転倒で大腿骨を骨折し、キャリア史上最も深刻な負傷を負いました。その結果、シーズン最初の11戦を欠場することとなりました。しかし、その絶望と痛みの中から、ガイザーは2024年を力強く迎えるための精神的な土台を築き上げたのです。
「奇妙な話ですが、大腿骨を骨折した時、すでに精神的に燃え尽きていました」と彼は振り返ります。「シーズンはまだ始まっていませんでしたが、すでに疲れを感じていて、20戦をどうやって戦い抜くのか分からなかったのです。その後、クラッシュが起こり、レースを欠場しなければならないことに怒りや悲しみを感じましたが、一方では安堵感もありました。数ヶ月かけてリセットし、回復し、モチベーションを取り戻す時間ができることが分かっていたからです。同じルーティンを長い間続けてきました – 毎年同じように、2月初めから10月初めまでレースをし、その後11月にはテストが入ります。すごく忙しいんです!世界中を飛び回る必要もあります。日本へ行ったり、スポンサー対応、イベントやガラ (祝賀イベント) もあります。レース以外は何もしていないと思われがちですが、数週間後にはすぐに次のシーズンのトレーニングを考え始めなければなりません。それを11年間続けてきました。パンデミックの時期には休みすらありませんでした。結局のところ、モトクロスアスリートでいることは簡単ではありません。多くのものを犠牲にしなければならず、普通の生活や休日もありません。トップ3を目指すなら、週末さえ休みはありません。それでも、やっぱり私はこの生き方が好きですし、今でも楽しんでいます。」
ガイザーの物語は、進化を続けるCRF450Rの歩みと密接に関わっています。Hondaはマシンの使いやすさを、パワー出力や高度な電子制御技術、さらには質量の集中化といったコンセプトと調和させることを目指してきました。ガイザーはこれまで3世代にわたるマシンの進化を経験しています。「一番良かったマシン?今乗っているCRFは本当に気に入っていますが、以前のモデルも素晴らしかったです。乗り心地が素晴らしかったんです。それは新しい世代のマシンで、2021年、2022年、2023年に使っていましたが、その時はほとんど何も変更する必要がありませんでした。本当に少しだけ修正を加えたくらいで、とても快適でした。Hondaのマシンは通常、ハンドリングが非常に良く、パワーも素晴らしいです。狭いコーナーや長いコーナーでも扱いやすいパッケージになっているだけでなく、パワーの出方も本当にスムーズで安定しています。当然、それらを変更することも可能で、HRCはフレームの変更も含め、こちらのどんなリクエストにも対応してくれます。こうした機会があるのは本当に素晴らしいことで、これこそがファクトリーチームの真の価値だと思います。もし何かに満足していなかったとして、改善できると全員が判断すれば、日本に戻って新しいものを作り、テストを行います。私たちはかなり頻繁にテストを行っています。」
HRCのライダーとして、ガイザーは現地の身近な技術チームだけでなく、日本のスタッフとも円滑な関係を築く必要がありました。「毎年日本に行って会社を訪れます。そこで60人ものエンジニアが自分のマシンの開発だけに専念している姿を目の当たりにすると、その熱意に圧倒されます。会議に参加すると、彼らはあらゆる質問を投げかけてきます。ある人はハンドリングに特化し、別の人はフレーム、さらに別の人は電子機器を担当しています。HRCがどれほど大規模で、最高のマシンを作るためにどれだけ努力しているかを実感します。大勢の人々が同じ目標、つまりタイトルを獲得するという目標に向かっていることを知るのは、ライダーにとって本当に素晴らしいことです。より一層モチベーションを高めてくれます。」
2025年、ガイザーはグランプリ参戦12シーズン目を迎え、レースカレンダーの終わりには29歳になります。「彼は年齢を重ね、よりプロフェッショナルになり、マシンへのこだわりもより精密になっています」とカステリは語ります。「数年前はマシンの細部にそれほど注意を払わず、ただ乗るだけでしたが、今では小さな違いが結果を左右すると理解し、より細やかな部分まで追求しています。」ガイザーはHRCのカラーをまとい、MXGPのタイトルを目指す10シーズン目に挑みます。「2025年も契約は残っていますし、良い関係性を築くことはとても大切です」と彼は語ります。「年間20戦ものグランプリがある中、このスポーツで20代後半までキャリアを続けることは容易ではありません。しかし、レースやトレーニングを楽しみ、毎朝起きて、笑顔でジムや練習場に向かうことができる限り、プロとして続けていきます。」
「Hondaと共に過ごして10年。信じられないくらいあっという間でした」と彼は語ります。「楽しく幸せな時間はあっという間に過ぎていくとよく言いますが、本当にその通りだと思います。」
ティム・ガイザー:最速を追い求めて。