Honda RTL ELECTRIC開発秘話:EVトライアルマシン、世界への挑戦(前編)
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Honda RTL ELECTRIC開発秘話:EVトライアルマシン、世界への挑戦(前編)

Honda RTL ELECTRIC。その名の「ELECTRIC」が示す通り、歴代のHonda製競技用トライアルマシンシリーズ「RTL」の電動車(EV)バージョンである。2024年には全日本トライアル選手権(JTR)の3戦に実戦テストとして参戦し、今年2025年はトライアル世界選手権(TrialGP)のTrial2クラスに全戦参戦を果たした。

Honda RTL ELECTRICの開発について、二輪・パワープロダクツ電動事業開発統括部の秋吉洋行と深尾祐介に話を聞いた。両者は、2024年に藤波貴久がHonda RTL ELECTRICでJTR3連勝を成し遂げた当時から現場を支えてきた。

このマシンおよびプロジェクトにはモーターの専門家や部品を作るサプライヤー、さらには全体を俯瞰する立場の人間まで含めると、多くの人が関わっている。しかし、開発スタッフの中でレース現場という最前線に赴いていたのは、秋吉や深尾のほか数名のメンバーだった。

秋吉は、バッテリーやモーターなど、さまざまなコンポーネントを組み合わせる「パッケージ」を担当しており、2025年シーズンの日本GPに参加した。一方、深尾はライダーにより近い立ち位置で、ライダーの要求やフィードバックを具体的なカタチにする役割を担っており、今シーズンは全戦現場に帯同した。


二輪・パワープロダクツ電動事業開発統括部の深尾祐介(写真左)と秋吉洋行(写真右)
二輪・パワープロダクツ電動事業開発統括部の深尾祐介(写真左)と秋吉洋行(写真右)

Honda RTL ELECTRICは、2024年にJTRで実戦デビューを果たした。ライダーは2004年TrialGP世界チャンピオンであり、Repsol Honda HRCの監督でもある藤波だ。日本国内最高峰のクラスである国際A級スーパー(IAS)の、しかもシーズン後半の残り3戦からのスポット参戦であったが、藤波のライディングと相まって、そのまま全勝という快挙を成し遂げた。

そして2025年、活躍の舞台はTrialGPのTrial2クラスへ移った。ライダーは、1998年生まれのスペイン人、ミケール・ジェラベルト。彼はTrialGPで2度の3位表彰台獲得経験を持つ実力者だ。

2025年シーズンを走ったマシンは、基本的には2024年にJTRで3連勝したマシンをアップデートしたもの。JTRのしかもIASで3連勝という実績を踏まえれば、Trial2クラスを戦う性能はすでに十分備わっていると開発陣は考えていた。しかし、ライダーは藤波ではなく、それまで接点のなかったミケールだ。


2024年のJTRで活躍する藤波
2024年のJTRで活躍する藤波

深尾「初期型を作るのももちろん大変ですが、ライダーに合わせた特性にするのも同じくらい大変で、特に最初は難航しました。ライダーごとに求めているものが異なるので、例えば藤波さんだと好評だったマップでも、ミケールが乗るとまた別の要望が出てきたりします。特にEVはマップの調整一つで本当に性格ががらっと変わります。4ストロークのような特性だったものが2ストロークみたいになったり、排気量まで変わってしまうくらいの違いが、マッピングを変えるだけでできてしまうんです」

ミケールのHonda RTL ELECTRICへの第一印象や、最初の要望はどのようなものだったのだろうか。

秋吉「ミケールとEVの相性は悪くないように思え、すぐに乗りこなしていました。マシンへの注文は、藤波さんから要求されたのとはずいぶん違っていて、スロットルを開けた時のツキに対しての要求がありました」

深尾「エンジンの爆発のようなパンチが欲しいと。スロットルを開けた時にドン!とくる感じが欲しいというものでした」

秋吉「エンジンの場合は一発一発の爆発感覚がライダーに伝わりますけど、そういう鼓動がモーターにはないんですね。ヒュンヒュンと回ってしまう」


2025年はミケールがHonda RTL ELECTRICライダーに
2025年はミケールがHonda RTL ELECTRICライダーに

深尾「おもしろかったのは、ライダーの要求をそのまま反映させたら、ぜんぜん結果につながらず、後になって分かったのが、やるべき方向が逆だった、ということがありました。モーターの特性と、そこから感じられる感覚を模索していたころの話です」

秋吉「結局、パワーが勝つと路面を食わないんです。スピニング、つまりタイヤが空転してしまっている訳なんですが、その感覚がエンジンと違って分かりづらい。エンジンだと『この感覚だとこんな加速をするはず。こんな感覚が伝わってきているということは加速が鈍いから滑っている』とライダーは評価します。ところがEVではあまりにスムーズかつパワフルなので、スピンしているのとグリップして走っているのが、同じ感覚になってしまうんです。ライダーへのフィードバックがすごく少なくて、軽く、そしてすごく速く回ってしまうんです」

並のライダーでは到達できない領域で戦うトップライダー。よりよいマシンを作る作業は、彼らの言葉をカタチにするところから始まる。しかし、まだまだ未知の部分が多いEVでのトライアルということもあり、ライダーと開発陣の試行錯誤が欠かせない。



深尾「ミケールの要望を聞きながらチューニングを繰り返したマップは結果的にかなりアグレッシブな特性になりました。イメージとしてはちょっと開けるだけでドカンと出るような特性です。ミケールはそんなフィーリングを好んで乗っていました。ところが、そのセッティングで開幕戦に臨んだら成績がボロボロだったんです」

秋吉「最初のノーポイントには本当に驚きました。その後の3レースも、ポイント獲得が目標ではありませんでしたから、こんなはずではないと。シーズンが始まる前は開幕から優勝する気持ちで、自信満々で乗り込んでいきましたから、あんな結果になるとはライダーも僕たちも思っていませんでした」

TrialGPのTrial2クラス開幕戦スペイン大会は、藤波がJTRで3連勝したマシンと、GPライダーのミケールの布陣で挑んだ。Honda RTL ELECTRICにとって初めての世界への挑戦であったが、世界中のファンや開発陣、そしてライダー本人も勝利は堅いと思っていた。ところが、土曜日のレース1は16位でノーポイント、レース2からはポイント圏内に復調したものの、期待されていた結果からはほど遠かった。

秋吉「テストやプラクティスでは好調のように見えました。練習ではエンジンバイクと一緒に走ることもありましたが、ここはEVでしかいけない、みたいなところもあったくらいです。チーム全員が勝てると信じていましたので、ノーポイントという結果は全く想定していませんでした」


開幕戦スペイン大会に挑むミケール
開幕戦スペイン大会に挑むミケール

思わぬ不振。それはライダーの不慣れか、あるいはレース本番特有の難しさだったのか。

秋吉「練習時の落ち着いた環境とレースとでは、やっぱり違ったんだと思います。スロットルの開け方も練習とレースでは違っている様子でした」

深尾「これはまずいと。しかし、開幕戦から第2戦まで1週間しかありません。移動もありますから、走れるのは実質1日とか1日半とかくらいしかないんです。その限られた時間で軌道修正をしました。車両そのものは全く同じで、マップの方向性だけ大きく変更しました。あとは残り僅かな時間の中でミケール本人に乗り方を合わせてもらうことになりました」

開発陣は、聞き取りからこの不調の原因はライダーではなく、モータを制御するマップにあると判断した。短期間にマップの方向性を大きく変える必要が出て、その舵取り役となったのが藤波だった。

深尾「マップの方向性を変更するということは、ミケールにとっては、せっかく自分好みにチューニングしてきたマップを捨てることを意味します。正直ミケール自身、戸惑いや葛藤が大きかったはずです。そんな中でミケールに寄り添って説得してくれたのは、藤波さんでした。藤波さんは『懐の深いセッティング』と表現されていましたが、ちょっとラフに操作したとしてもある程度マシンが許容してくれるマップにしました。とにかくTrial2クラスはGPクラス以上にミスが許されません」

秋吉「いける・いけない、できる・できないで勝負が決まるのではなく、いかに失敗しないで走りきれるかが勝負です。ミケールのセッティングは、いける時にはいけるけれど、ちょっとしたミスが大失敗につながるセッティングでした。それを藤波さんがミケールに話してくれました」


第2戦ポルトガル大会でミケールが好走
第2戦ポルトガル大会でミケールが好走

ライダーにはそれぞれ信念があり、自分を信じられなければ、難セクションに挑む時にも迷いが出る。一気にパワーが出るピーキーなセッティングと、結果を重視した堅実なセッティング。大きな方向性の変更を理解し納得することはライダーにとって容易ではないはずだ。

深尾「最初はミケールも正直少し納得できないという様子で走っていましたが、いろんなセクションを走るにつれて確かに藤波さんのアドバイス通り、新しいマップの方が成功率が高いということを体感的に理解するんですね。ミケールの元々のセッティングでもいけるときはいけるんです。むしろすばらしい走りをすることもある。でも安定性に欠ける。それを懐の深いセッティングにすることで、成功率がうんと高まりました」

セッティングを変える中で、マシンとライディングだけでなく、ミケール本人にも変化が見られたという。

深尾「セッティングの方向性変更で成功率が高まったことを体感的にも感じられるようになったころから、エンジニア側の意見に積極的に耳を傾けてくれるようになりました。マッピングの過程でライダーと真逆の意見になることもありますが、こちらに判断を委ねてくれることもあります」

秋吉「彼は本当に短期間で乗り方をガラッと矯正してきました。その結果、第2戦ポルトガルで優勝しました」


ミケールがHonda RTL ELECTRICでの初勝利を飾った第2戦ポルトガル大会表彰台
ミケールがHonda RTL ELECTRICでの初勝利を飾った第2戦ポルトガル大会表彰台

マップのセッティングは構造的にいくらでもマシンにインプット可能だという。ならば、走る地形やセクションごとに最適なマッピングを使い分けることもできるだろう。そのように使い分けて走ったら、さらによい結果が生まれるのではないだろうか。

深尾「シチュエーションに応じて細かくマップを選択できるタイプのライダーならそういうこともあり得るかもしれません。藤波さんはどちらかというとそちらのタイプで、走行中に瞬時に判断して切り替えながら走行されていました。対してミケールは、どちらかというと1つのマップでどこでも走るタイプ。練習走行で車体の動きを自分自身にインプットして、それをレースで再現する。ですから、ミケール用のマッピングは、極端に言えば、晴れ用と雨用があればそれで十分という感じです」

ここで、興味深い図版をみせてもらった。細かい文字は読めないものの、壮大なフローチャートのようだ。


マップの家系図について語る2人
マップの家系図について語る2人

深尾「これ、マップの家系図なんです。一番最初のマップから、どのように手を加えていったのかが分かるような図になっています。ミケールのレスポンスのいいマップもこのどこかにあります。この家系図は開発チーム内で情報を共有するために作ったものですが、マップの派生元をたどれるようにするという目的もあります。マッピングの過程で、例えば『試しに昨日使ったMAPに戻してほしい』というような要望が出ることもありますが、そういった状況で役立ちます」

マッピングは専門家だけの仕事ではない。やがてミケールもその仲間となっていった。

深尾「走行の合間にノートにマップの特性を簡単にイラストで描いて、それをミケールも含めてみんなで見ながら、どの領域をどう変更していくかを議論することがありますが、ミケール自身も絵を描き加えながらコメントしてくれます。すごく曖昧な図だったりしますが、そのイメージを参考にしながらマッピングすることもありました」

秋吉「こういう作業は、まさにEVならではですね。エンジン車よりも要求がすぐに反映されます。作業時間も短いので、作業を待っているライダーもストレスが少ないと思います。エンジンだったら、カムを削るか、みたいな話になるかもしれませんが、削ったら元には戻せません。ミケールもこうした作業に感動して、いろいろ試していました。ただ、いろいろやれるからこそ、特に最初のころはやりすぎてしまい、訳がわからなくなってくるんですね。本人も『自分はこれまでキャブレターばっかりだったから』と、とても新鮮そうな印象でした」

JTR3連勝で始まったEVトライアルの世界への挑戦は、Trial2クラス開幕戦でのまさかのノーポイントという現実に直面した。しかし、開発陣の迅速な立て直しと藤波の説得、そしてミケールの驚異的な順応力によって、チームは短期間で勝利をつかみ取ることに成功する。

EVならではのマッピング調整、ライダーとマシンが互いに歩み寄ることで生まれたマップ。Honda RTL ELECTRICは、ただ速いだけのマシンではなく、「世界を獲りにいくためのEVトライアルマシン」として、世界にもその存在感を強めつつあった。

しかし、TrialGPの長いシーズンは、決して順風満帆ではない。走行時間が増え、多様な路面にさらされる中で、EVトライアルマシン特有の設計上の難題や、シーズン終盤に思わぬトラブルがチームを襲うことになる。

後編では、そんなEVだからこそ直面した壁と、その先にHondaが描くEVトライアルの未来に迫っていく。

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