HRC 40年の軌跡

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2 wheels stories 2輪モータースポーツの歴史

マン島TT出場宣言からはじまったHondaのレース活動を担うため、1982年にHRCが誕生してから40年。
多くの挑戦と、栄光の歴史を振り返ります

黎明期 RSCの設立からHRCへ

マン島TT出場チーム1954年3月20日。日本の元号でいえば昭和29年。
力道山が街頭テレビで空手チョップを振るい、映画「ローマの休日」が日本公開されたこの年、日本のモータースポーツにおける大きな出来事がありました。Hondaがまだ、自転車用補助エンジン「カブF2型」を販売していた頃の話です。
「マン島TT出場宣言」。静岡県浜松市で、1948年に創立されたばかりの本田技研工業株式会社が、創立わずか6年で、オートバイの世界選手権レースに出場する、という宣言でした。

オートバイの世界選手権レースは1949年にスタート。125/250/350/500ccクラスのオートバイ(注:50ccは62~83年、80ccは84~89年のみ開催)によって行われるグランプリレースで、もちろん日本のメーカーが出場するのは初めて。宣言が発表された54年にはイギリスでマン島とベルファストの2戦、オランダ、西ドイツ、イタリア、スペインで行なわれていたグランプリレースの、最高峰といわれていたイギリス・マン島TTへの出場を宣言するもの。つまり、世界最高のオートバイレースへの挑戦でした。

マン島TT出場宣言宣言の主は、もちろんHondaの創始者、本田宗一郎。宣言の内容は左写真を見ていただくとして、その中に興味深い一文がある。
「私の幼き頃よりの夢は自分で製作した自動車で全世界の自動車競走の覇者になることであった」
「レースの覇者は勿論、車が無事故で完走できればそれだけで優秀車として全世界に喧伝される」
59年にマン島TTレースに初出場し、その年末には三重県・鈴鹿製作所の厚生施設を建設する会議の場で、本田は日本で初めての本格的ロードサーキット建設を提案。
その場で本田は「俺はレースをやるところが欲しいんだ。クルマはレースをやらなくては良くならない」と発言。来たるべき60年代の高速時代に対応したクルマづくりと、安全な高速走行ができるレース場を作るのがメーカーの責務である、という考えを持っていました。

マン島TTレース出場宣言からわずか2年後の61年には、開幕戦スペインで125cc初優勝、第2戦西ドイツで250cc初優勝を挙げ、両クラスのメーカーチャンピオンを獲得したあと、本田は社報でこうも言っています。
「レースはやはりやらなきゃならない。レースによって、自分の力量や技術水準が世界のどのくらいにあるかを知ることができるし、それによって、経営の基盤をどこに置いたらよいかを決めることができるんだからね。(中略)レーサーは製品の尖兵なんで、レーサーと製品とは、いわば往復運動をやっているんだね」(1964年社報「社長のレース随感」より)
本田の思いは、グランプリレース出場からサーキット建設へとつながり、そこで得た技術は市販オートバイへと投入されて行きました。同時に64年には自動車レースの最高峰「F1グランプリ」への出場も宣言し、その活動は世界で初めての低公害エンジンの開発にもつながっていきました。

RCB1000オートバイのレースへの情熱はグランプリレースだけではなく、市販モデルをベースとしたマシンによって行なわれるレースへも向いていきました。
67年でグランプリレースへの参戦を一時休止したあとも、国内のレースに参加していたHondaは、73年に鈴鹿サーキット内に「RSC」(=レーシング・サービス・センター)を別会社として設立。オートバイだけではなく、自動車も含め、国内のレースを戦うマシンの開発や、有力プライベーターへのマシン供給を担当するレーシングサービスを行なう部署として活動を始めますが、その後76年から参戦を開始した耐久選手権へのマシンも製作。この時に生まれたレーシングマシンが、ヨーロッパ耐久選手権や世界耐久選手権で活躍したRCB1000やRS1000でした。
市販モデルCB750FOURをベースとした耐久レーサーRCB1000は、76年にヨーロッパ耐久選手権に参戦するや、初年度から8戦7勝でシリーズチャンピオンを獲得し、77年には9戦全勝、78年には9戦8勝で3年連続チャンピオンを獲得。RCBの次期モデルである、新世代の市販モデルCB900FをベースとしたRS1000でも79~80年とチャンピオンを獲得し、Hondaの耐久レーシングマシンは5年連続でチャンピオンを獲得します。

そして、耐久選手権での活躍と同時期にグランプリレースへの復帰を宣言したHondaは、復帰に当たってまったく新しい4ストロークエンジンのレーシングマシン開発に着手。当時のグランプリレースで主流、当たり前となっていた2ストロークエンジンに対抗すべく、楕円ピストンを使用したV型4気筒エンジンを開発。「NR」(=ニュー・レーシング)プロジェクトと名付けられたマシン開発を行なうNRブロックが、その後に2ストロークエンジンを搭載したレーシングマシンを開発するにあたり、既存のRSCと合併し、1982年9月1日にHRC(=ホンダ・レーシング・コーポレーション)が誕生。
HRCは、RSCの事業内容をさらに発展させ、レース用車両やパーツの開発、製造と販売を目的とした企業で、その後のHondaのレース活動を一手に引き受けることになります。

Hondaのレース部門がHRCとなって初シーズンである1983年には、フレディ・スペンサーが2ストロークマシンNS500でグランプリレース復帰からの初チャンピオンとなったほか、ジョイ・ダンロップがRS850RでTT-F1チャンピオンとなり、82年末にはパリ・ダカールラリーでシリル・ヌヴーがHonda車による初優勝を記録。またグランプリレースでは、NS500をベースとした市販レーシングマシンRS500の販売も開始しました。

Chapter 02

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Chapter 03

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Chapter 04

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Chapter 05

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4 wheels stories 4輪モータースポーツの歴史

4輪部門のレースでは、Hondaとしてチャレンジを続けてきました。
F1をはじめとする各カテゴリーでの、挑戦の歩みを振り返ります。

黎明期 RSCの設立からHRCへ
第1期

1964年8月2日、F1第6戦ドイツグランプリ。アイボリーカラーに赤い日の丸を入れた1台のF1マシンが、ニュルブリンクサーキット決勝のスターティンググリッドに並びました。ドライバーは実績のない若いアメリカ人、ロニー・バックナムです。予選はうまくいかず、グリッドはいちばん後ろの22番手。この場所から、HondaF1レースの歴史がスタートしました。後方には誰もおらず、ただ1台でも多くのマシンを追い抜くことを目指して進むことから始まったのです。

オートバイのマン島TTレースでは圧倒的な強さで初優勝をするなど、オートバイメーカーとして世界で知られるようになったHondaは、F1初参戦の前年に、小型スポーツカーS500と軽トラックのT360を発売したとはいうものの国内最後発の4輪メーカーとして歩みだしたばかりでした。そんな4輪での実績がほとんどないHondaがF1参戦を決意し、挑むことが、どれだけ無謀な挑戦だったか、はかりしれないほどでした。

RA271プロトタイプのRA270からさらに開発を進め、RA271と名付けられた日本で最初の実戦フォーミュラカーは、満足に走れなかった予選とは裏腹に、決勝では一時9番手を走行しました。残り3周のところでクラッシュ、リタイアしましたが、快進撃といえるスピードを見せ、手応えと自信を得ました。

RA272 初勝利の歓喜は全戦出場となった1965年に訪れました。この年は前年からのロニー・バックナムに加えて、同じアメリカ人のリッチー・ギンザーをドライバーに迎え入れ2台体勢で参戦。最終戦となった第10戦メキシコグランプリで、改良されたRA272は、標高の高いサーキットに合わせて念入りにセッティングされ、リッチー・ギンサーが3番手のスターティンググリッドを獲得。

そして全周回でトップを走り抜け、初めての優勝をHondaにもたらしました。チームメートのロニー・バックナムも5位入賞です。初参戦からわずか2年目でたどり着いた頂点は、偶然ではなく実力でつかんだ念願の優勝でした。同時にHondaは、4輪でも世界に通じる技術力があることを証明したのです。

1966年からレギュレーションの変更によって、エンジン排気量は1.5Lから3.0L になりました。1967年には、2輪レースで無敵の活躍をしてからF1ドライバーになったイギリス人のジョン・サーティースが加入。このシーズンはサーティースひとりだけの参戦です。第9戦イタリアグランプリ、モンツァ・サーキットで突貫作業によって完成したばかりのRA300を駆ったサーティースは、9番手グリッドから順位を上げていき、最後はジャック・ブラバムとの一騎打ちになりました。

ジョン・サーティース最終コーナーを交錯しながら立ち上がり、ゴールラインを目指したサーティースは、わずか1車身の差で先にチェッカーフラッグを受けたのです。
2度目の歓喜だけでなく、この年は3位が1回、4位2回を記録して、ドライバーとコンストラクターのランキングで4位を獲得。後に第1期と呼ばれるF1レース参戦の最高潮となるシーズンとなりました。

Hondaは、社会問題となっていた排出ガス問題に対応する低公害エンジン開発や、本格的な乗用車メーカーとしての地歩を固めるため、1968年シーズンでF1参戦の休止を決めました。

本田宗一郎は、1965年のメキシコGP優勝後の記者会見で、「我々は、自動車をやる以上、1番困難な道を歩くんだということをモットーでやってきた。勝っても負けてもその原因を追求し、品質を高めて、より安全なクルマをユーザーに提供する義務がある。そして、やる以上、1番困難な道を敢えて選び、グランプリレースに出場したわけです。勝っておごることなく、勝った原因を追求して、その技術を新車にもどしどし入れていきたい」と語っていました。

第1期F1参戦で勝利を目指して開発に没頭した技術者たちは、その後の4輪量産車開発の中でも、大きな役割を担っていきました。

第2期

休止していたレース活動を再開するにあたり、その足がかりとして1980年のヨーロッパF2選手権へのエンジン供給から始めました。F1レースは技術の進化やレギュレーションの変更のみならず、取り巻く環境も含めて前回参戦の頃から大きく様変わりしていました。
Hondaは、F1レースの経験がない若い技術者が多い中で、まずはF2でレースの経験を積んでからステップアップしていくことを選びました。

第2期の2年目となる1981年には、ラルト・Honda のイギリス人ドライバーのジェフ・リースがヨーロッパF2選手権を制覇。Hondaエンジンは1983年から1984年にかけて12連勝する強さをみせる結果を残しました。

そのさなかにF1エンジンの開発を進め、1983年7月、F2レースでもエンジンを提供していたスピリット・レーシングが制作したF1シャシーにHondaF1エンジンが搭載され、F1レースに復帰したのです。

新たなF1参戦は、F2レースと同様に車体は作らず、エンジンを供給する方法を選択しました。復帰後初のレースはわずか5周でリタイアとなりましたが、その年の最終戦には名門チームのウイリアムズにHonda製ターボ過給のV型6気筒1.5Lエンジンを供給、5位に入賞しています。

ケケ・ロズベルグ翌1984年7月は、第9戦ダラスグランプリでHondaエンジンのウイリアムズFW09のハンドルを握ったフィンランド人、ケケ・ロズベルグが優勝。継続してウイリアムズチームとタッグを組んだ1985年は、シーズン途中に新エンジンを投入してから4勝。さらなる勝利を積み重ねるべく臨んだ1986年、ウイリアムズ・Hondaチームは16戦中9勝する強さでコンストラクターズタイトルを手にしました。

以後1991年までコンストラクターズタイトルを6年連続で獲得。1988年にはマクラーレン・Hondaが全16戦中15勝と圧倒的な成績を残しました。

この間、ドライバーズタイトルでも1987年のネルソン・ピケ(ウイリアムズ・Honda)、1988年のアイルトン・セナ(マクラーレン・Honda)、ターボが禁止され3.5Lの自然吸気エンジンに変わった1989年のアラン・プロスト(マクラーレン・Honda)、1990年と1991年のアイルトン・セナ(マクラーレン・Honda)が、Hondaエンジンでチャンピオンを獲得しました。

アイルトン・セナ

Hondaの強さを支えた要因の一つに、車体各部にセンサーを設けるなどして集めたさまざまなデータをモニタリングできるテレメトリーシステムを開発、それまでの経験や勘で行っていたマシンのセッティングに代わり、データに基づいたコンピューターによる電子制御をF1レースの世界へいち早く持ち込んだことがあります。これ以降、F1レースの電子制御化は加速度的に進んでいきました。

そして参戦から10年が過ぎた1992年に、Hondaは第2期F1参戦を終了することを発表。1983年の参戦から撤退する1992年までに排気量1.5LのV6ターボ、排気量3.5LのV10自然吸気、排気量3.5LのV12自然吸気とエンジンを開発し、その間に69勝の成果を挙げました。

第3期

3度目の参戦は2000年。第1期と同じく、エンジン開発・供給に加えて新たに車体の開発・製造およびチーム運営を含めた“HondaのF1レーシングチーム”として参戦することを、1998年春に発表しました。

しかし、1年後の1999年5月、Hondaは参戦2年目のB・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)をパートナーに、エンジン開発・供給に加え、車体を共同開発する道を選び(チーム運営についてはB・A・Rに委託)、2000年より3度目 のF1グランプリへの挑戦が始まりました。

とはいえ、F1における技術的進歩は著しく、7年間活動を休止していたHondaにとって、後れを取り戻すことは並大抵のことではなく、2000年から2003年にかけては、5位→6位→8位→5位とコンストラクターズでの上位進出は達成できないまま推移しました。

2004年にはB・A・R・Hondaチームのドライバーは、イギリス人のジェンソン・バトンと、2001年・2002年とエンジンを供給したジョーダンチームからB・A・Rに移籍してきた佐藤琢磨がレギュラードライバーとして昇格。オフシーズンテストからの好調を維持、復帰から5年目にしてついにトップチームと並べる速さを手に入れました。

ジェンソン・バトンは、優勝こそないものの、第4戦のサンマリノグランプリでは第3期初のポールポジションを獲得し、3度の3戦連続表彰台など、シーズンを通して上位をキープ。年間で2位を4回、3位を6回記録し、ドライバーズランキング3位に入りました。

佐藤琢磨また、佐藤琢磨が6月の第9戦アメリカグランプリで日本人ドライバーとして14年ぶりの表彰台に立ち、日本のF1ファンに喜びをもたらしました。この年、ドライバー2人の活躍により、コンストラクター部門でも2位と躍進しました。

そして排気量3.0LのV10から排気量2.4LのV8にエンジンルールが変更された2006年、B・A・Rの全株式を取得して第3期参戦検討開始時の構想にあったフルコンストラクターでの参戦が38年ぶりに実現したのです。

そして8月の第13戦、ハンガロリンクで開催されたハンガリーグランプリで、ついにその時がやって来ます。ウエットレースという難しいコンディションの中で、ジェンソン・バトンがトップでゴール。第3期初の栄冠は1967年第9戦イタリアグランプリのジョン・サーティース以来のフルコンストラクターによる優勝。ジェンソン・バトンにとってもF1参戦115戦目の初勝利でした。

ジェンソン・バトン

2006年シーズンは、最終的にコンストラクターズ・ポイントで4位で終わったものの、翌2007年は8位、2008年も9位と成績は低迷、リーマンショックの発生など、大きな環境変化が起こった2008年シーズン終了後の12月、第3期F1参戦の終了を発表。1度の勝利を得て、第3期F1参戦は終了を迎えました。

第4期

2013年の5月に「2015年からパワーユニットサプライヤーとしてMcLarenとのジョイントプロジェクトのもと、F1に参戦する」ことを発表。排気量1.6LのV6シングルターボに、ERS(エネルギー回生システム)を組みあわせたパワーユニット(PU)を開発。

第2期に圧倒的な強さを誇ったMcLaren Hondaコンビが復活したことに注目が集まりましたが、PUの競争力のキャッチアップは思うように進まず、2015年はコンストラクターズで9位、2016年は6位、2017年は9位と成績は低迷、その年の9月には、McLarenとのパートナーシップ終了を発表しました。

2018年には新たにScuderia Toro Rosso(スクーデリア・トロ・ロッソ、以下トロ・ロッソ)へPU供給を開始。さらにシーズン途中の6月には、同じRed Bull Group(レッドブル・グループ) のRed Bull Racing(以下レッドブル・レーシング)へもPUを供給することを発表しました。

ピエール・ガスリー2019年はレッドブル・レーシングとトロ・ロッソの2チーム体勢とすると同時に、航空エンジン研究開発部門の協力を得て、ターボの耐久性を大きく向上させるなど、Honda各所からの協力のもと、PUのパワーと信頼性を向上させることに成功しました。

パワーと信頼性が向上した新PUの効果もあり、開幕戦オーストラリアグランプリでレッドブルのオランダ人ドライバー、マックス・フェルスタッペンが3位となり、第4期初となるポディウム(表彰台)獲得を達成しました。

さらに第9戦オーストリアグランプリで、Scuderia Ferrari(フェラーリ)のルクレールとの接戦を制し、第4期初となる優勝を果たしました。マックスはこの年のドライバーズランキングで、絶対的な強さを誇っていたメルセデスの2人に続く3位を獲得。Red Bull Racing Hondaはコンストラクターズでも3位になりました。

続く2020年はマックス・フェルスタッペンがドライバーズ3位、Red Bull Racing Hondaがコンストラクターズ2位と、2014年以来7年連続でコンストラクターズ・チャンピオンを獲得しているMercedes AMG F1チームにあと1歩というところまで迫ってきました。そうした状況の中、10月2日Hondaは2021年シーズンでの第4期F1参戦終了を発表します。

背水の陣で挑んだ2021年シーズン。新骨格PUを投入したRed Bull Racing Hondaのマックス・フェルスタッペンとMercedes AMG F1のディフェンディングチャンピオン、ルイス・ハミルトンの一騎打ちとなりました。最終戦の1戦前までの段階でマックス・フェルスタッペンは優勝9回、ルイス・ハミルトンは優勝8回、最終戦までもつれ込んだタイトル争いは、最終周での接近戦を制しての劇的な勝利により幕を閉じました。マックス・フェルスタッペンにとっては初めての、そしてHondaにとっても1991年、アイルトン・セナのチャンピオン獲得から30年の時を経て手に入れたドライバーズタイトルとなりました。

マックス・フェルスタッペン マックス・フェルスタッペン

Hondaとしての参戦を終了した2022年シーズンは、ホンダ・レーシング(HRC)が、Hondaに代わるPUサプライヤーとなったレッドブル・パワートレインズへの技術的支援を行っています。またこの技術支援は、2025年まで継続することが決定しています。

SUPER GT /SUPER Formula

Now Challenge参戦カテゴリー解説

2022年からは、4輪部門のレース活動もHRCとして挑戦を続けています。
HRCスピリットを継承し、熱いバトルを繰り広げる各カテゴリーをご紹介します。

国内

SUPER GT

SUPER GT

1994年に始まった全日本GT選手権から続く、セミ耐久レースの日本最高峰カテゴリー。2018~2019年シーズンには元F1王者ジェンソン・バトンがエントリーするなど、世界的に実績のあるドライバーも多く参戦して注目を集めています。

1チーム2人のドライバーがマシンをシェアし(長距離レースでは3人の場合あり)、交代を挟んで300~450kmのレース距離(2022年)を走ります。SUPER GTにはマシンの改造範囲によってクラス分けがあり、Honda、トヨタ、日産の3社が「世界最速のツーリングカー」と言われる専用のマシンでしのぎを削るGT500クラスと、世界中のメーカーの多彩な市販車ベースのマシンが参戦するGT300クラスに分かれています。速度差のある両クラスですが、同じコース上を混走してレースを行うことが特徴で、他クラスのマシンまでも利用する駆け引きも見どころのひとつです。

Hondaは全日本GT選手権の時代から参戦しており、2022年はGT500クラスの5チームに「NSX-GT」を、GT300クラスの2チームに「NSX GT3」を供給。近年では2018年に山本尚貴/ジェンソン・バトン組、2020年には山本尚貴/牧野任祐組がGT500クラスのドライバーズタイトルを獲得しています。

SUPER Formula

 SUPER Formula

全日本選手権フォーミュラ・ニッポンを引き継ぐ形で2013年にスタート。日本国内フォーミュラカーレースの最高峰として、全国各地のサーキットで戦いが繰り広げられます。

「日本最速ドライバー」の座を争うシリーズであるとともに、F1ドライバーのピエール・ガスリーや2021年インディカー・シリーズチャンピオンのアレックス・パロウなど、世界的に有名なドライバーも参戦したことから、世界のトップレースへの登竜門的存在としても注目を集めています。

車体はイタリア・ダラーラ社製、タイヤはヨコハマ製のいずれもワンメイクで、エンジンサプライヤーとしてHondaとトヨタの2社が参戦。両社がそれぞれに開発した2リッター直列4気筒直噴ターボエンジンを搭載しますが、高い技術力の中でエンジン出力はほぼ拮抗したものとなっています。マシンがほぼイコールコンディションであることから激しい接近戦が常に繰り広げられ、ドライバーの腕とチームの戦略が大きなカギを握ります。

Honda勢は6チーム10台が参戦。これまでに山本尚貴が3回(2013、2018、2020年)、野尻智紀が1回(2021年)ドライバーズチャンピオンを獲得しています。


海外

INDY CAR

INDY CAR

インディカー・シリーズは北米最高峰のモータースポーツシリーズのひとつで、アメリカとカナダで年間17戦(2022年)が行われています。コースの種類は大きく分けて3つあり、F1のようなレーシングコースで行われる“ロード”、市街地コースの“ストリート”のほか、楕円形のコースを高速で周回する“オーバル”でのレースが特徴的です。なかでも、2022年に106回目の開催を迎えた「インディ500」は、F1モナコGP、ル・マン24時間と並び“世界三大自動車レース”に数えられる伝統のレースです。オーバルコースのインディアナポリス・モーター・スピードウェイを、平均350km/h以上の超高速で200周して競われるこのレースは、全米から約30万人もの観衆を集める一大イベントとなっています。

Hondaはエンジン・マニュファクチャラーとして03年から参戦。06~11年には一社供給体制となるなど、シリーズの繁栄を支えてきました。22年は17台に2.2L V6ツインターボエンジンを供給しています。

インディカー・シリーズには世界から有力なドライバーが参戦しますが、そのひとりが元F1ドライバーの佐藤琢磨。2010年から参戦し、2013年の第3戦ロングビーチ大会で日本人ドライバーとして初優勝。さらに、インディ500を2017年に初制覇、2020年には2勝目を挙げるなど、トップドライバーとしてシリーズ中でも一目置かれる存在となっています。

WTCR

WTCR

FIA ワールド・ツーリングカー・カップ(FIA World Touring Car Cup)は、市販車をベースとしたレース用マシンで争われる国際レースカテゴリーです。前身であるWTCC世界ツーリングカー選手権と、同じくツーリングカーレースのTCR International Seriesが統合し、2018年シーズンから新シリーズが開催されています。

ヨーロッパやアジアのサーキットを舞台に、2022年は年間9戦を予定。Hondaを含む5社のメーカーが参戦し、性能差の出にくいレギュレーションもあって毎戦のように接戦が繰り広げられており、時には接触もいとわないような「ハコ車」ならではの激しいバトルが魅力です。

TCRマシンは、排気量2000cc以下のターボエンジンを搭載した4ドアまたは5ドアのFF車(前輪駆動)の市販車をベースに、TCRテクニカルレギュレーションに則ってチューニングされます。HondaはWTCC時代の2012年から参戦を開始し、日本でも親しまれているスポーツハッチバックのシビックで参戦を続けてきました。2018年のWTCR初年度からは、イタリアのJAS Motorsportとともに開発した「Civic Type R TCR」を投入。2022年は2チーム4台体制で参戦しています。

F1

F1

フォーミュラ・ワン世界選手権は自動車レースの世界最高峰カテゴリーで、一般的には「F1(エフワン)」の通称で広く知られています。

Hondaが日本メーカーとして初めてF1に参戦したのは1964年。以来、休止期間をはさみながら幾度も挑戦し、多くの勝利を手にしてきました。
2014年からF1は、内燃機関(エンジン)にエネルギー回生システムを組み合わせた「パワーユニット(PU)」を搭載するハイブリッドマシンで、レースを行うようになりました。そこにHondaは2015年から、車体開発をするチームに対してPUを供給する「パワーユニットサプライヤー」としてF1に復活しました。

複雑な条件の下でのPU開発は困難の連続で、当初は思うような成績を残すことができませんでしたが、5年目の2019年に初優勝。最終年となった2021年にはRed Bull Racing Hondaのマックス・フェルスタッペンがドライバーズチャンピオンに輝き、大きな成果をもって参戦を終了しました。

2022年からは、レッドブル・グループからのHondaへの要請に基づいて、HRCがレッドブル・パワートレインズに対してパワーユニットに関する技術支援を実施。現行のPU規則が継続される2025年まで、レッドブル・グループのチャレンジをサポートし、HRCの人と技術を一層磨き上げることを目指しています。

Message創立40周年にあたって

1982年9月1日、株式会社ホンダ・レーシング(HRC)が設立されました。
以来40年、HRC、そしてホンダのモータースポーツ活動は、数々の勝利を積み重ねてくることができました。これも、モータースポーツ・ファンの皆さまをはじめ、レース関係者、お取引先様始め関係者の皆さまのご尽力の賜物と考えており、改めて感謝を申し上げたいと思います。

8月7日、3年ぶりの開催となった鈴鹿の8耐において、各メーカーのイメージカラーをまとった応援団で一杯になったメインスタンドを見ていて、改めてモータースポーツファンのありがたさを実感しました。モータースポーツは決してライダー、ドライバー、参戦チーム、メーカーだけで成り立っている訳でなく、サーキットやスクリーンを通じて声援を送って頂いている熱いファンの存在が不可欠であると思っています。 こうしたファンの想いに応えるには、やはりお客様に、「観に来てよかった」、「観て良かった」 と思って頂ける、質の高いレースをお見せすること以外にないと思っています。 その為にHRCには、日々、技術や戦略を磨き、そして、それを実行する優れたライダー、ドライバーを育てていく使命があると思っています。

創業40年を迎えた現在、モビリティ業界を取り巻く環境は、カーボンニュートラル対応や自動運転など大転換期に差し掛かっています。同様に、レース業界に目を移してみても、カーボンニュートラルの流れは、避けては通れず、カーボンニュートラル燃料や電動化といったハード面だけでなく、レースの参戦や観戦のあり方までも、大きく変えてしまうほどのインパクトを持っています。

レースは短期間で人と技術を磨く、究極の方法です。限られた時間、そして厳格なレギュレーションの中で知恵を絞り、本気で勝ちを目指す、これがHondaそしてHRCのチャレンジの象徴であり、レースを続けていく一番の理由です。

また、挑戦し、達成した成功体験をもつ人たちがその”挑戦のDNA”を、HRCのレース領域のみならず、Hondaのさまざまな領域に浸透させることで、世の中が求めるものを生み出していける、と確信しています。
Hondaが、将来においても、社会から存在を期待される企業であるために、HRCは挑戦を続け、世の中の移動と暮らしの進化に貢献して参ります。

代表取締役社長 渡辺 康治


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