HRC 40年の軌跡

HRC 40年の軌跡

Video Messages from the LegendsHRCとともに勝利を挙げた選手からのメッセージや40周年の特別映像です。

HRC 40年の軌跡

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2 wheels stories 2輪モータースポーツの歴史

マン島TT出場宣言からはじまったHondaのレース活動を担うため、1982年にHRCが誕生してから40年。
多くの挑戦と、栄光の歴史を振り返ります

黎明期 RSCの設立からHRCへ

マン島TT出場チーム1954年3月20日。日本の元号でいえば昭和29年。
力道山が街頭テレビで空手チョップを振るい、映画「ローマの休日」が日本公開されたこの年、日本のモータースポーツにおける大きな出来事がありました。Hondaがまだ、自転車用補助エンジン「カブF2型」を販売していた頃の話です。
「マン島TT出場宣言」。静岡県浜松市で、1948年に創立されたばかりの本田技研工業株式会社が、創立わずか6年で、オートバイの世界選手権レースに出場する、という宣言でした。

オートバイの世界選手権レースは1949年にスタート。125/250/350/500ccクラスのオートバイ(注:50ccは62~83年、80ccは84~89年のみ開催)によって行われるグランプリレースで、もちろん日本のメーカーが出場するのは初めて。宣言が発表された54年にはイギリスでマン島とベルファストの2戦、オランダ、西ドイツ、イタリア、スペインで行なわれていたグランプリレースの、最高峰といわれていたイギリス・マン島TTへの出場を宣言するもの。つまり、世界最高のオートバイレースへの挑戦でした。

マン島TT出場宣言宣言の主は、もちろんHondaの創始者、本田宗一郎。宣言の内容は左写真を見ていただくとして、その中に興味深い一文がある。
「私の幼き頃よりの夢は自分で製作した自動車で全世界の自動車競走の覇者になることであった」
「レースの覇者は勿論、車が無事故で完走できればそれだけで優秀車として全世界に喧伝される」
59年にマン島TTレースに初出場し、その年末には三重県・鈴鹿製作所の厚生施設を建設する会議の場で、本田は日本で初めての本格的ロードサーキット建設を提案。
その場で本田は「俺はレースをやるところが欲しいんだ。クルマはレースをやらなくては良くならない」と発言。来たるべき60年代の高速時代に対応したクルマづくりと、安全な高速走行ができるレース場を作るのがメーカーの責務である、という考えを持っていました。

マン島TTレース出場からわずか2年後の61年には、開幕戦スペインで125cc初優勝、第2戦西ドイツで250cc初優勝を挙げ、両クラスのメーカーチャンピオンを獲得したあと、本田は社報でこうも言っています。
「レースはやはりやらなきゃならない。レースによって、自分の力量や技術水準が世界のどのくらいにあるかを知ることができるし、それによって、経営の基盤をどこに置いたらよいかを決めることができるんだからね。(中略)レーサーは製品の尖兵なんで、レーサーと製品とは、いわば往復運動をやっているんだね」(1964年社報「社長のレース随感」より)
本田の思いは、グランプリレース出場からサーキット建設へとつながり、そこで得た技術は市販オートバイへと投入されて行きました。同時に64年には自動車レースの最高峰「F1グランプリ」への出場も宣言し、その活動は世界で初めての低公害エンジンの開発にもつながっていきました。

RCB1000オートバイのレースへの情熱はグランプリレースだけではなく、市販モデルをベースとしたマシンによって行なわれるレースへも向いていきました。
67年でグランプリレースへの参戦を一時休止したあとも、国内のレースに参加していたHondaは、73年に鈴鹿サーキット内に「RSC」(=レーシング・サービス・センター)を別会社として設立。オートバイだけではなく、自動車も含め、国内のレースを戦うマシンの開発や、有力プライベーターへのマシン供給を担当するレーシングサービスを行なう部署として活動を始めますが、その後76年から参戦を開始した耐久選手権へのマシンも製作。この時に生まれたレーシングマシンが、ヨーロッパ耐久選手権や世界耐久選手権で活躍したRCB1000やRS1000でした。
市販モデルCB750FOURをベースとした耐久レーサーRCB1000は、76年にヨーロッパ耐久選手権に参戦するや、初年度から8戦7勝でシリーズチャンピオンを獲得し、77年には9戦全勝、78年には9戦8勝で3年連続チャンピオンを獲得。RCBの次期モデルである、新世代の市販モデルCB900FをベースとしたRS1000でも79~80年とチャンピオンを獲得し、Hondaの耐久レーシングマシンは5年連続でチャンピオンを獲得します。

さらに、1982年初頭にはパリ・ダカールラリーでシリル・ヌヴーがHonda車による初優勝を記録しました。

そして、耐久選手権での活躍と同時期にグランプリレースへの復帰を宣言したHondaは、復帰に当たってまったく新しい4ストロークエンジンのレーシングマシン開発に着手。当時のグランプリレースで主流、当たり前となっていた2ストロークエンジンに対抗すべく、楕円ピストンを使用したV型4気筒エンジンを開発。「NR」(=ニュー・レーシング)プロジェクトと名付けられたマシン開発を行なうNRブロックが、その後に2ストロークエンジンを搭載したレーシングマシンを開発するにあたり、既存のRSCと合併し、1982年9月1日にHRC(=ホンダ・レーシング・コーポレーション)が誕生。
HRCは、RSCの事業内容をさらに発展させ、レース用車両やパーツの開発、製造と販売を目的とした企業で、その後のHondaの二輪レース活動の主軸を担っていきます。

Hondaのレース部門がHRCとなって初シーズンである1983年には、フレディ・スペンサーが2ストロークマシンNS500でグランプリレース復帰からの初チャンピオンとなったほか、ジョイ・ダンロップがRS850RでTT-F1チャンピオンとなりました。また、NS500をベースとした市販レーシングマシンRS500の販売も開始しました。

創世記HRC本格始動

1982年9月、HRC(ホンダ・レーシング・コーポレーション)としてリスタートしたHondaのレーシングスピリットは、新たな局面を迎えることになります。それは、ロードレースの最高峰であるワールドグランプリへの再挑戦でした。

1959年のマン島TT初挑戦から、66年にはグランプリ史上で初めて、50/125/250/350/500ccの全5タイトルを独占したHondaですが、67年には参戦当初の目標を達成したとして、レース活動を休止していました。

しかし、レース活動をしていなければ市販モデルや新技術を磨くこともできないと、79年に最高峰500ccクラスへの再挑戦を宣言。Hondaが選んだのは、当時のグランプリレースで主流、当たり前となっていた2ストロークエンジンに対抗して、出力面では絶対に不利だと言われた4ストロークエンジンでの挑戦でした。

NS500 「NR(ニュー・レーシング)プロジェクト」といわれたHondaのグランプリ再挑戦ですが、NRは結果を残すことができず、Hondaは2ストロークエンジンでの再出発を計画。
今度の計画は、2ストロークエンジンでも、出力面でライバルの4気筒勢に劣るとされた3気筒エンジンでスタートした「NS(ニュー・スプリント)計画」と呼ばれるものでした。
新しい2ストロークエンジンを搭載したレーシングマシンNS500は、デビューレースとなった82年3月のアルゼンチンGPで、いきなり3位表彰台を獲得。5月の第4戦スペインGPでは初ポールポジションを、そして7月の第7戦ベルギーGPではついに復帰後初優勝を飾りました。Hondaにとって、500ccクラスでは、実に14年9か月ぶりの勝利となりました。

そしてこのシーズンの後半、9月にサンマリノGPが行われるタイミングで、RSC(レーシング・サービス・センター)にNRプロジェクトのチーム、NRブロックを統合して改組されたのがHRCでした。82年春ごろから新しい組織づくりが検討され、HRCはRSCに替わってレース運営をする別会社として、83年4月に埼玉県新座市に本社屋を、三重県・鈴鹿サーキット内に鈴鹿事業所を、そしてグランプリレースの活動拠点として、ベルギーにHRC-E(HRCヨーロッパ)を構えることになります。

HRCは、NRプロジェクトを続けてきたワークスチームの技術を、RSCがサポートしてきた一般ユーザーにも還元し、底辺からレースを広げることで、モータースポーツの社会的認知度を上げていく、という狙いもあったのです。

HRCは、もちろんロードレースばかりを手掛けていたのではなく、Hondaのレース活動のすべてを担当していました。この頃のHondaのレース活動といえば、グランプリや世界耐久をはじめとするロードレース、同じくグランプリ格式のモトクロス、トライアル、それに年末から年始に行われるパリ・ダカールラリーなど。

グランプリマシンNS500の初期基礎設計も、モトクロッサーの2ストローク125ccのエンジンを3基組み合わせたものがスタートになるなど、ロードレーサーにモトクロッサーの技術が投入されることも珍しくなかったのです。

オフロードレースでいえば、モトクロスにもHondaは参戦しています。

しかし、モトクロスが盛んになり始めた1960年代には、Hondaはほぼ4ストロークエンジン専業メーカーで、モトクロスに向くと言われた2ストロークエンジンを持つオフロードモデル開発は1970年代まで待たなければなりませんでした。

72年には、まず全日本選手権にRC335A、その改良型である335C/335Dを投入。73年にはアメリカ、AMA250のタイトルも獲得し、74~75年にはAMA125クラスチャンピオンも獲得。その73年には、アメリカ向けをメインに市販モトクロッサーCR250Mを発売。圧倒的にモトクロスの盛んなアメリカではテレビCMも放映され、そのCMキャラクターは、アメリカを代表する俳優、スティーブ・マックイーンでした。

NXR79年に始まったパリ・ダカールラリーへの参加も、HRCのレース活動の一つでした。
パリダカへの参加はホンダフランスが母体となってユーザーサポートを始めていましたが、ホンダフランスからHondaに要請のあったマシン開発を担当したのはRSC。82年の第4回大会には、RSCがエンジンチューンを担当したXR500Rを駆って、フランス人のシリル・ヌヴーが優勝。その後、人気が高まり続けるこのレースには、その後もHRCがマシン開発を担当し、86年の第8回大会でパリダカ用ワークスマシンNXR750がデビュー。NXRは86年から89年までパリ・ダカを4連覇、ここでもHondaが強さを見せつけたのです。

他にも、各国のナショナル選手権でのレース活動がありました。

アメリカでは、AHM(アメリカン・ホンダ・モーター)を母体としてモータースポーツをサポート。アメリカでのモータースポーツの頂点といえば、AMAスーパーバイクやデイトナを中心としたロードレースや、モトクロスやダートトラック。当時、Hondaのレーシングマシン開発はHRC設立以前のNRブロックが行っていたため、そのNRブロックがアメリカンダートトラック向けに、ワークスマシンNS750サイドワインダーを開発、後にHRCが設立されてからは、RS750Dを投入したこともあったのです。

RS750

日本では78年にスタートした鈴鹿8時間耐久ロードレースの人気が高まり、Hondaはヨーロッパ耐久選手権に出場していたHERT(ホンダ・エンデュランス・レーシング・チーム)がRSCで開発したRCB1000で参戦します。その後もRS1000やCB900F改のユーザーが参戦しますが、83年にはまったく新しい耐久マシンRS850Rを、翌84年からはマシン排気量規定が1000ccから750ccとなったことで、RS750を投入。ここでも、ワークスマシンを開発するのがHRCの活動でした。

日本最大のレースといわれた鈴鹿8耐では、その後もHRCがホンダワークスチームをはじめ、有力トップチームにワークスマシンを供給。78年にスタートしたこのレースでは、もっとも人気があったと言われる90年までに、79年/81年/82年/84年/85年/86年/89年と13年で7回の優勝を飾りました。

しかし、やはり世界的に一番の注目を浴びたのは、グランプリレースでした。

Chapter 03

1959年のマン島TTレース初挑戦から、66年の全5クラス制覇、その後のレース活動の休止と、79年の復帰。82年シーズンから、表彰台登壇、ポールポジション獲得、そして復帰後の初優勝と、結果を残してきたHondaとHRCのグランプリ計画ですが、翌83年からは、次なる目標であるワールドチャンピオン獲得へと動き始めます。

NR500Hondaがグランプリレース最高峰クラスで最後にマニュファクチャラーズタイトルを獲得したのは66年。79年にグランプリ復帰を果たしますが、その際に選んだ4ストロークエンジンを搭載したNR500は、あまりの技術的先進性ゆえ、参戦4シーズンで、優勝や表彰台はおろか、当時は決勝レースの10位にまでしか与えられていなかったポイントも獲得することができず、82年には主力マシンをNS500にスイッチすることになります。

ちなみに、この参戦4シーズンでのNR500の最高位は、予選が81年・第11戦イギリスGPの15位、決勝は82年・第7戦ベルギーGPの11位でした。

NR500は、グランプリレースだけでなく、ヨーロッパやアメリカのインターナショナルレース、全日本ロードレースにも参戦。80年のミザノ・インターナショナルレースでは決勝3位、81年の全日本ロードレース・鈴鹿200kmレースでは、ポールポジションを獲得し、NR500での初優勝も飾りますが、やはりグランプリレースでは結果を残すことができませんでした。

NS500

そして、グランプリレースでの最高位11位を果たした82年のベルギーGPで優勝したのが、NR500に替わってHondaのグランプリマシンとしてデビューしたNS500でした。NS500は、それまでNRブロックが重ねてきた膨大なトライ&エラーを生かすかたちで、初年度からランキング3位を獲得。

ライダーは、81年にNR500でHondaライダーとしてのグランプリデビューを果たしていたフレディ・スペンサーで、スペンサーはそのデビューレースで、前述のNR500による予選最高リザルト15位をマークしたライダーでもありました。

Hondaは初の2ストロークグランプリマシンNS500に、当時のグランプリレギュレーションの上限値で、ライバルメーカーすべてが採用していた4気筒エンジンを使わず、あえて出力で不利だとみられていた3気筒を選択しました。NR500時代と変わらず、オリジナルのアイディアで勝負するHondaは、ライバルにエンジンパワーで劣っても、3気筒マシンらしいハンドリングで4気筒勢と互角に戦い、ランキング3位という結果を残したのです。

スペンサーとNS500は、82年シーズンから本格参戦。デビューレースとなった開幕戦・アルゼンチンGPでは、いきなり予選2番手から決勝レースで3位表彰台を獲得すると、5月の第4戦スペインGPでは初ポールポジションを、そして7月の第7戦ベルギーGPではついに復帰後初優勝を飾り、この年のランキングでは3位を獲得。このベルギーGPでの優勝は、1960年代から数えて全クラス通算139勝目となり、いよいよ66年以来17年ぶりのワールドチャンピオンを狙います。

NS500の2年目のシーズン、スペンサーは、開幕戦からライバルメーカーのエース、ケニー・ロバーツと激戦を繰り広げ、スペンサーが開幕3連勝を決めれば、ロバーツがシーズン終盤の第8戦から3連勝を決めるなど、お互い一歩も譲らず、最終的にスペンサーがわずか2ポイント差でワールドチャンピオンを獲得。これがHondaにとってはグランプリ史上初のライダーズタイトルとなりました。

ちなみにこの83年シーズンは、12レース中でスペンサー6勝/2位3回/3位1回、ロバーツ6勝/2位3回/3位0回で、総合ポイントがわずか2ポイント差という、グランプリ史上に残る激闘として今でも語り継がれています。

84年は、いよいよNS500が4気筒のNSR500へと進化したシーズンでした。しかし、その4気筒もHondaらしいオリジナリティにあふれたもので、低重心化を狙って燃料タンクが車体下部に、排気チャンバーは通常の燃料タンクの位置にあるという車体構成。しかし新しい4気筒エンジンの熟成不足で、レースによっては旧型3気筒エンジンのNS500で出走、NSR500でもNS500でも優勝を飾るという、試行錯誤のシーズンを送ることになりました。

この年、スペンサーはランキング4位に終わりますが、同じくNSR500やNS500、さらにHRCの市販レーサーRS500を使用するライダーの活躍もあって、マニュファクチャラーズタイトルは83年に続く2連覇を達成します。

さらに世界耐久選手権ではジェラルド・コードレイ/パトリック・イゴアがチャンピオンとなり、ジョーイ・ダンロップがTT-F1世界選手権を制覇。

オフロードレースでは、アンドレ・マレベが世界選手権モトクロス500ccで、エディ・ルジャーンが世界トライアル選手権でチャンピオンとなると、そしてアメリカではHondaで初めて、USグランドナショナル・ダートトラック選手権でリッキー・グラハムがタイトルを獲得します。

そして85年はHondaにとって記念すべきシーズンとなりました。

Hondaで5年目のシーズンを迎えるスペンサーが、これまでの500ccに加え、250ccへのエントリーも表明し、1レースで2クラスを走るダブルエントリーとしたのです。

これは、80年代後半へ向けて250ccクラスのエントリー拡大を狙い、Hondaが250ccのレーシングマシンを市販しようとした中で、スペンサーにテスト走行を依頼。このマシンの素性に高評価を下したスペンサーが、自らのチャレンジとして、今まで誰も成し遂げていないダブルタイトルを目指してダブルエントリーを決意したものでした。Hondaは後に、GP125クラスに向けての市販レーサーも開発。88年に市販を開始しました。

NSR250

当時、125cc/250cc/500ccクラスの3レースが行われていたグランプリで、スペンサーは250ccのレースを終えてすぐに500ccクラスの走行準備に入る、というあわただしいスケジュールを消化し、500ccクラスで7勝、250ccクラスで7勝を挙げ、そのうちダブルウインが4回という途方もない記録をマーク。結果、両クラスともチャンピオンとなり、ここに前人未到の250/500ccダブルチャンピオンが誕生したのです。

スペンサーは3月のアメリカ・デイトナ200マイルでも優勝し、アメリカでは事実上の3冠チャンピオンと呼ばれました。

Hondaはスペンサーの活躍もあり、マニュファクチャーズタイトルでも500ccクラスで3連覇、250ccクラスでは1967年以来18年ぶりのチャンピオンとなることができました。

この85年、東京都港区青山に現在のHonda本社が完成。イギリスのチャールズ皇太子とダイアナ妃がHonda本社を公式訪問したことも話題になりました。

この年のHRCは、グランプリレースを中心に、世界耐久選手権、鈴鹿8時間耐久ロードレース、TT-F1世界選手権、全日本ロードレース250/500/TT-F1/TT-F3、AMAスーパーバイク、デイトナ200マイルといったロードレースをはじめ、モトクロス世界選手権125/250/500ccクラス、AMAスーパークロス&AMAナショナル、全日本モトクロス125/250ccクラス、パリ・ダカールラリー、トライアル世界選手権、全日本トライアル選手権といったレースカテゴリーに積極的に関与し、ファクトリーマシンの投入や市販レーサーの販売をはじめとしたHondaユーザーのサポートを継続。モータースポーツの普及、発展や、Hondaとしての技術開発を続けることになるのです。

ミック・ドゥーハン

日本をはじめ、世界的にオートバイレース人気が高まった1980~90年代ですが、Hondaはその一翼を担い、HRCが全世界でレース運営、ユーザーサポートを行いました。

グランプリレースでは、スペンサーのダブルタイトルの後、500ccでは87年にワイン・ガードナー、89年にエディ・ローソン、94~98年にミック・ドゥーハン、99年にアレックス・クリビーレがライダーズタイトルを獲得し、89年、92年、94~99年にはメーカータイトルも獲得。

250ccでは87年にアントン・マンク、88~89年にアルフォンソ・ポンス、91~92年にルカ・カダローラ、97年にマックス・ビアッジがライダータイトルを獲得し、メーカータイトルも86~89年、91~94年、96~97年に獲得することができました。

特に90年代は、スペンサーと並ぶ活躍を見せたミック・ドゥーハンの登場によって、Hondaはグランプリ最強メーカーと呼ばれるにふさわしい戦績を挙げることができました。

ドゥーハンはグランプリデビュー2年目となる90年第14戦ハンガリーGPで初優勝を挙げると、91年に3勝、92年には開幕4連勝を挙げるものの、シーズン中盤の転倒で大きなダメージを負い、確実視されていたチャンピオンを獲り逃がしてしまいます。

そして93年、Honda勢がわずか2勝に終わったシーズンを経て、94年にはドゥーハンが14戦9勝、ノーポイントレースが一つもないという圧勝でチャンピオンに輝くと、95年は7勝、96年は8勝、97年は12勝、98年は8勝を挙げて5年連続チャンピオンを獲得。不調に終わったとされる93年ではありますが、HRCが新しく2ストロークマシンにフューエルインジェクションを組み合わせたマシンで、日本人グランプリライダー伊藤真一が、第6戦ドイツGPでトップスピード200mph(約320km/h)を破ったレースとしても記憶されています。

97年は15戦すべてでHondaライダーが優勝し、9戦で表彰台を独占、シリーズランキングでも上位5人がすべてHondaライダーという圧巻の成績を残す中、97年・開幕戦マレーシアGPから98年・第7戦オランダGPまで、Hondaライダーによる22連勝というグランプリ記録を打ち立てることもできました。

ドゥーハンは99年第3戦の転倒によるケガで栄光のグランプリキャリアを終えますが、90年~99年で5回のライダータイトルを獲得し、通算54勝という偉大な成績を残すことになりました。

ここまでHondaの500ccクラスでのレース活動では、60年代に10勝、グランプリに復帰して2ストロークNS500/NSR500を走らせた82年以降は、スペンサーのダブルタイトルの85年までで25勝、86年から89年までの4年間で20勝、そして99年までに83勝を、そしてグランプリレースの最高峰クラスが4ストロークエンジンを使用するMotoGP世代が始まるまでの2001年までに18勝を挙げ、500cc時代に合計156勝をマーク。

そして2001年の開幕戦・日本グランプリでは、125/250/500cc通算500勝を達成。グランプリは、マシン規定が大きく変わるMotoGP世代を迎えることになるのです。

Honda
Chapter 04

1949年にグランプリレースがスタートして以来、最高峰クラスはずっと排気量500ccのレーシングマシンで行われてきました。

そのグランプリレースにHondaが初めて参戦したのが1959年、最初は4ストローク2気筒エンジンのRC141で125ccクラスに、翌60年にRC161で250ccクラスに参戦。350ccクラスへは62年のRC170から、そして最高峰の500ccクラスへは66年のRC181で参戦をスタートしました。

しかし、最高峰クラスは、この「500cc」という排気量が上限であり、そのエンジンは2ストロークとも4ストロークとも規定されていませんでした。特にHondaはこの頃ほぼ4ストロークエンジン専門のメーカーで、同じ排気量ならば2ストロークの方が出力を出しやすい、という常識と常に戦ってのレース活動だったのです。

67年を最後にHondaがグランプリレースから撤退した後は、まさに2ストローク全盛時代。特に500ccクラスは、50年代からMVアグスタの4ストロークマシンが圧倒的強さを誇り、57年にジレラに、66年にHondaに王座を譲ったシーズン以外は、56年から73年までの18年で16回のメーカータイトルを獲得していました。

そのMVアグスタ最強時代を終わらせたのが、74年、デビュー2年目のヤマハ2ストロークマシンYZR500で、その後はスズキRG/RGA/RGB/RGC500/RGΓが76年から82年まで7連覇を果たします。

Hondaがグランプリに復帰した4ストロークのNR500も結果を出すことができず、83年にはHondaの2ストロークマシンNS500がタイトルを獲得し、その後4ストロークマシンがタイトルを取ることはありませんでした。

しかし90~2000年代にかけて、主に排気ガスや騒音の規制もあって、市販車を含めて2ストロークエンジンモデルが減少していきました。

グランプリでもそれは例外ではなく、もはや市販モデルにつながらない2ストロークエンジンでのレースを続けてはならないのではないかという議論が始まり、ついに2000年4月に、グランプリレースを統括するFIMがグランプリマシンの4ストローク化を宣言したのです。その内容は、2002年からグランプリの最高峰クラスを500ccクラスからMotoGPクラスと改称し、従来の2ストローク500ccマシンに加え、4ストローク990ccマシンの参加も認めるというものでした。

この新しい時代のグランプリに向けてHRCが開発を進めたのは、4ストローク990ccのV型エンジンで、しかも5気筒というレイアウト。これは、マシンの最低重量がエンジン気筒数ごとに規定される中、高回転を狙う多気筒化と最低重量のバランスが取れているとして選んだエンジン型式でした。

V型5気筒エンジンを搭載し、ユニットプロリンクと呼ばれるリアサスペンションを持つ新世代4ストローク990ccのグランプリマシンの車名はRC211V――ホンダのグランプリマシンを表わす「RC」と、21世紀でナンバー1を獲るという「211」、それにV型エンジンと5気筒を表わす「V」を組み合わせた車名でした。

グランプリに多気筒4ストロークエンジンを持ち込んだ60年代、2ストローク全盛の時代に4ストロークマシンNR500を持ち込んだ70年代、そして2ストローク4気筒に3気筒エンジンで立ち向かった80年代に続き、今まで誰も見たことがないV型5気筒というエンジン型式を持ち込んだのも、またHondaらしいオリジナルなアイディアでした。

バレンティーノ・ロッシ

RC211Vは、MotoGP時代の幕開けとなる2002年開幕戦、雨の日本グランプリでバレンティーノ・ロッシがRC211Vデビューウインを達成。その後もライバルを圧倒し、RC211Vは16戦14勝を達成。ロッシが11勝、アレックス・バロスが2勝、宇川徹が1勝という、まさに圧勝のシーズンでした。

2003年シーズンも16戦14勝を挙げたRC211Vは、Hondaに2年連続のメーカータイトルをもたらし、ロッシも2年連続チャンピオンに輝きました。

2004年は、ロッシがライバルメーカーへ移籍したこともあって、ライダータイトルこそライバルメーカーに奪われますが、メーカータイトルは2001年から4連覇を達成。ただ、2005年はMotoGP世代となって初めてライダー/メーカータイトルをライバルメーカーに明け渡してしまいます。

そして2006年は、翌2007年からマシン排気量規定を800ccとすると発表されての990ccラストイヤー。ここでHRCは、いち早く990ccエンジンのまま800ccサイズのRC211V「ニュージェネレーション」を製作し、ニッキー・ヘイデンに供給。レギュレーション改正を見越して1年早くマシン準備をするのは、1984年にTT-F1マシンのレギュレーションが1000ccから750ccに変更されるのを見越して、1年早くマシン排気量を1000ccから850ccに変更して鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場した83年と同じ、Hondaらしい手法でした。

ヘイデンは2006年、第8戦オランダGPでHondaの最高峰クラス200勝目を挙げ、最終戦までもつれたライダータイトル争いでは、最終戦でロッシを逆転。メーカータイトルも奪還し、MotoGPの990cc時代、82レース中の50%を超える勝率をマーク。990cc世代のラストイヤーを飾ることになります。

2007年からMotoGPマシンが800cc規定となって、独創のV型5気筒エンジンはV型4気筒に変更され、車名もRC212Vに変更されます。この2007~2010年には、ライダー/メーカータイトルとも獲ることができませんでしたが、2011年にはケーシー・ストーナーがHondaに加入してライダー&メーカータイトルを奪還、2012年にはメーカータイトルを獲得すると、2013年には前年までMoto2クラスを走っていたマルク・マルケスがいよいよHonda陣営に加入します。

Moto2クラスとは、2ストロークマシンのGP250が4ストローク化されて2010年にスタートしたクラスで、オリジナルシャーシのメーカーがHondaCBR600RRのエンジンを搭載するマシンで行うレースです。

マルク・マルケスマルケスは、GP125クラスを3年を経て、このMoto2クラスを2年目でライダータイトルを獲得、2013年にMotoGPクラスにステップアップし、Hondaファクトリーチームに加入。そのデビューシーズンから最年少でチャンピオンを獲得し、2014年、そして2016~2019年にもライダータイトルを獲得するなど、Hondaのレース活動史に残る活躍を見せてくれています。
2020年からはケガの影響で納得のいく結果を出せていませんが、ケガが癒えたら、また以前のような目覚ましい活躍をしてくれるものと期待しています。

ラリー

2002年から20年に渡るシーズンは、やはり上記のようなMotoGPでの活動が主なものとなりますが、もちろんHRCのレース活動は、オンロード/オフロード/トライアル/ラリー、その世界選手権から各国のナショナル選手権までカバーしてきました。

2013年初頭には、南米で行われるようになったダカールラリー(旧称:パリ・ダカールラリー)に、24年ぶりにファクトリーチームとして参戦。2020年には、復帰後初となる総合優勝を果たすことができました。

RN-01

また2002年には、自転車競技であるマウンテンバイク・ダウンヒル競技に向けて、ダウンヒル競技専用マウンテンバイクRN-01を開発し、マウンテンバイク・ジャパンシリーズやワールドカップにマシンを供給しました。この、一見オートバイとは関係のない活動にしても、マウンテンバイクの変速メカニズムを、のちのMotoGPマシンのミッション開発の一助にするなど、全く異なるカテゴリーからのフィードバックも欠かしませんでした。

そして2022年には、4輪レース部門であるHRD Sakura(栃木県さくら市を本拠とするホンダ・リサーチ・アンド・デベロップメント)とHRCが合流。創立40年を経て、いよいよ新しい時代に突入していくことになります。

Chapter 05

2022年、Hondaの二輪レース部門を運営するHRCに、四輪レース開発を担うHRD Sakuraが合流。HRCが創立40周年を機に、新しい時代を迎えることになりました。

もちろん、二輪モータースポーツに関して、これまで通り、各チャンピオンシップにファクトリーマシンを供給、有力チーム、プライベーターをサポートする姿勢は変わりません。

HRCは、こうしたモータースポーツへのサポートを続け、モータースポーツを志すライダー、ドライバーを育てていく使命があると考えています。

現在、モビリティを取り巻く環境は、大幅な変革期にあります。その中でHondaは「2050年にHondaの関わるすべての製品と企業活動を通じて、カーボンニュートラルをめざすこと」を宣言しました。
もちろん、モータースポーツの世界においてもカーボンニュートラルへの対応は重要であると考えおり、電動化やカーボンニュートラル燃料対応といった技術開発を重点的に進めています。

すでにグランプリレースを統括するFIMからは、MotoGPにおいて、将来的にゼロカーボン燃料を導入することを発表しています。具体的には2024年までにMotoGPマシンの使用燃料の最低40%を、そして2027年までに100%の非化石由来の燃料を使用する、という方針を発表。これはMoto2とMoto3クラスについても同様で、2027年には100%持続可能な燃料に変更する、と発表されました。

もちろん、これは従来通りの標準的な内燃機で使用されるものとされていて、MotoGP/Moto2/Moto3マシンが、すぐにハイブリッドシステムを採用する、というものではありません。今はHondaをはじめ、MotoGPマシンのメーカーすべてが最善のロードマップを描けるよう、折衝を重ねているところなのです。

新たにHRCの業務にも加わったF1に関しては、Hondaに代わるパワーユニットサプライヤーとなったレッドブル・パワートレインズへの技術的支援を行いながら、この命題に向き合っていくことになります。

Hondaは2030年までに、自動車の世界で軽商用車からフラッグシップクラスまで、グローバルで30機種のEVを展開し、その年間生産台数は200万台を超える計画である、と発表しました。

二輪車においても、Hondaは「2040年代に全ての二輪製品でのカーボンニュートラルを実現することを目指す」ことを宣言。ICE(内燃機関)の進化にも継続的に取り組みながら、今後の環境戦略の主軸として、二輪車の電動化を加速させる方針を明らかにしました。

HRCは、レースで培われた人材と技術を通じて、二輪・四輪を始めたとしたHonda製品のカーボンニュートラル化に貢献することを目指します。

持続可能なモビリティ、持続可能なモータースポーツのために、これからの40年もHRCはチャレンジを続けます。

Honda

4 wheels stories 4輪モータースポーツの歴史

4輪部門のレースでは、Hondaとしてチャレンジを続けてきました。
F1をはじめとする各カテゴリーでの、挑戦の歩みを振り返ります。

黎明期 RSCの設立からHRCへ
第1期

1964年8月2日、F1第6戦ドイツグランプリ。アイボリーカラーに赤い日の丸を入れた1台のF1マシンが、ニュルブリンクサーキット決勝のスターティンググリッドに並びました。ドライバーは実績のない若いアメリカ人、ロニー・バックナムです。予選はうまくいかず、グリッドはいちばん後ろの22番手。この場所から、HondaF1レースの歴史がスタートしました。後方には誰もおらず、ただ1台でも多くのマシンを追い抜くことを目指して進むことから始まったのです。

オートバイのマン島TTレースでは圧倒的な強さで初優勝をするなど、オートバイメーカーとして世界で知られるようになったHondaは、F1初参戦の前年に、小型スポーツカーS500と軽トラックのT360を発売したとはいうものの国内最後発の4輪メーカーとして歩みだしたばかりでした。そんな4輪での実績がほとんどないHondaがF1参戦を決意し、挑むことが、どれだけ無謀な挑戦だったか、はかりしれないほどでした。

RA271プロトタイプのRA270からさらに開発を進め、RA271と名付けられた日本で最初の実戦フォーミュラカーは、満足に走れなかった予選とは裏腹に、決勝では一時9番手を走行しました。残り3周のところでクラッシュ、リタイアしましたが、快進撃といえるスピードを見せ、手応えと自信を得ました。

RA272 初勝利の歓喜は全戦出場となった1965年に訪れました。この年は前年からのロニー・バックナムに加えて、同じアメリカ人のリッチー・ギンザーをドライバーに迎え入れ2台体勢で参戦。最終戦となった第10戦メキシコグランプリで、改良されたRA272は、標高の高いサーキットに合わせて念入りにセッティングされ、リッチー・ギンサーが3番手のスターティンググリッドを獲得。

そして全周回でトップを走り抜け、初めての優勝をHondaにもたらしました。チームメートのロニー・バックナムも5位入賞です。初参戦からわずか2年目でたどり着いた頂点は、偶然ではなく実力でつかんだ念願の優勝でした。同時にHondaは、4輪でも世界に通じる技術力があることを証明したのです。

1966年からレギュレーションの変更によって、エンジン排気量は1.5Lから3.0L になりました。1967年には、2輪レースで無敵の活躍をしてからF1ドライバーになったイギリス人のジョン・サーティースが加入。このシーズンはサーティースひとりだけの参戦です。第9戦イタリアグランプリ、モンツァ・サーキットで突貫作業によって完成したばかりのRA300を駆ったサーティースは、9番手グリッドから順位を上げていき、最後はジャック・ブラバムとの一騎打ちになりました。

ジョン・サーティース最終コーナーを交錯しながら立ち上がり、ゴールラインを目指したサーティースは、わずか1車身の差で先にチェッカーフラッグを受けたのです。
2度目の歓喜だけでなく、この年は3位が1回、4位2回を記録して、ドライバーとコンストラクターのランキングで4位を獲得。後に第1期と呼ばれるF1レース参戦の最高潮となるシーズンとなりました。

Hondaは、社会問題となっていた排出ガス問題に対応する低公害エンジン開発や、本格的な乗用車メーカーとしての地歩を固めるため、1968年シーズンでF1参戦の休止を決めました。

本田宗一郎は、1965年のメキシコGP優勝後の記者会見で、「我々は、自動車をやる以上、1番困難な道を歩くんだということをモットーでやってきた。勝っても負けてもその原因を追求し、品質を高めて、より安全なクルマをユーザーに提供する義務がある。そして、やる以上、1番困難な道を敢えて選び、グランプリレースに出場したわけです。勝っておごることなく、勝った原因を追求して、その技術を新車にもどしどし入れていきたい」と語っていました。

第1期F1参戦で勝利を目指して開発に没頭した技術者たちは、その後の4輪量産車開発の中でも、大きな役割を担っていきました。

第2期

休止していたレース活動を再開するにあたり、その足がかりとして1980年のヨーロッパF2選手権へのエンジン供給から始めました。F1レースは技術の進化やレギュレーションの変更のみならず、取り巻く環境も含めて前回参戦の頃から大きく様変わりしていました。
Hondaは、F1レースの経験がない若い技術者が多い中で、まずはF2でレースの経験を積んでからステップアップしていくことを選びました。

第2期の2年目となる1981年には、ラルト・Honda のイギリス人ドライバーのジェフ・リースがヨーロッパF2選手権を制覇。Hondaエンジンは1983年から1984年にかけて12連勝する強さをみせる結果を残しました。

そのさなかにF1エンジンの開発を進め、1983年7月、F2レースでもエンジンを提供していたスピリット・レーシングが制作したF1シャシーにHondaF1エンジンが搭載され、F1レースに復帰したのです。

新たなF1参戦は、F2レースと同様に車体は作らず、エンジンを供給する方法を選択しました。復帰後初のレースはわずか5周でリタイアとなりましたが、その年の最終戦には名門チームのウイリアムズにHonda製ターボ過給のV型6気筒1.5Lエンジンを供給、5位に入賞しています。

ケケ・ロズベルグ翌1984年7月は、第9戦ダラスグランプリでHondaエンジンのウイリアムズFW09のハンドルを握ったフィンランド人、ケケ・ロズベルグが優勝。継続してウイリアムズチームとタッグを組んだ1985年は、シーズン途中に新エンジンを投入してから4勝。さらなる勝利を積み重ねるべく臨んだ1986年、ウイリアムズ・Hondaチームは16戦中9勝する強さでコンストラクターズタイトルを手にしました。

以後1991年までコンストラクターズタイトルを6年連続で獲得。1988年にはマクラーレン・Hondaが全16戦中15勝と圧倒的な成績を残しました。

この間、ドライバーズタイトルでも1987年のネルソン・ピケ(ウイリアムズ・Honda)、1988年のアイルトン・セナ(マクラーレン・Honda)、ターボが禁止され3.5Lの自然吸気エンジンに変わった1989年のアラン・プロスト(マクラーレン・Honda)、1990年と1991年のアイルトン・セナ(マクラーレン・Honda)が、Hondaエンジンでチャンピオンを獲得しました。

アイルトン・セナ

Hondaの強さを支えた要因の一つに、車体各部にセンサーを設けるなどして集めたさまざまなデータをモニタリングできるテレメトリーシステムを開発、それまでの経験や勘で行っていたマシンのセッティングに代わり、データに基づいたコンピューターによる電子制御をF1レースの世界へいち早く持ち込んだことがあります。これ以降、F1レースの電子制御化は加速度的に進んでいきました。

そして参戦から10年が過ぎた1992年に、Hondaは第2期F1参戦を終了することを発表。1983年の参戦から撤退する1992年までに排気量1.5LのV6ターボ、排気量3.5LのV10自然吸気、排気量3.5LのV12自然吸気とエンジンを開発し、その間に69勝の成果を挙げました。

第3期

3度目の参戦は2000年。第1期と同じく、エンジン開発・供給に加えて新たに車体の開発・製造およびチーム運営を含めた“HondaのF1レーシングチーム”として参戦することを、1998年春に発表しました。

しかし、1年後の1999年5月、Hondaは参戦2年目のB・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)をパートナーに、エンジン開発・供給に加え、車体を共同開発する道を選び(チーム運営についてはB・A・Rに委託)、2000年より3度目 のF1グランプリへの挑戦が始まりました。

とはいえ、F1における技術的進歩は著しく、7年間活動を休止していたHondaにとって、後れを取り戻すことは並大抵のことではなく、2000年から2003年にかけては、5位→6位→8位→5位とコンストラクターズでの上位進出は達成できないまま推移しました。

2004年にはB・A・R・Hondaチームのドライバーは、イギリス人のジェンソン・バトンと、2001年・2002年とエンジンを供給したジョーダンチームからB・A・Rに移籍してきた佐藤琢磨がレギュラードライバーとして昇格。オフシーズンテストからの好調を維持、復帰から5年目にしてついにトップチームと並べる速さを手に入れました。

ジェンソン・バトンは、優勝こそないものの、第4戦のサンマリノグランプリでは第3期初のポールポジションを獲得し、3度の3戦連続表彰台など、シーズンを通して上位をキープ。年間で2位を4回、3位を6回記録し、ドライバーズランキング3位に入りました。

佐藤琢磨また、佐藤琢磨が6月の第9戦アメリカグランプリで日本人ドライバーとして14年ぶりの表彰台に立ち、日本のF1ファンに喜びをもたらしました。この年、ドライバー2人の活躍により、コンストラクター部門でも2位と躍進しました。

そして排気量3.0LのV10から排気量2.4LのV8にエンジンルールが変更された2006年、B・A・Rの全株式を取得して第3期参戦検討開始時の構想にあったフルコンストラクターでの参戦が38年ぶりに実現したのです。

そして8月の第13戦、ハンガロリンクで開催されたハンガリーグランプリで、ついにその時がやって来ます。ウエットレースという難しいコンディションの中で、ジェンソン・バトンがトップでゴール。第3期初の栄冠は1967年第9戦イタリアグランプリのジョン・サーティース以来のフルコンストラクターによる優勝。ジェンソン・バトンにとってもF1参戦115戦目の初勝利でした。

ジェンソン・バトン

2006年シーズンは、最終的にコンストラクターズ・ポイントで4位で終わったものの、翌2007年は8位、2008年も9位と成績は低迷、リーマンショックの発生など、大きな環境変化が起こった2008年シーズン終了後の12月、第3期F1参戦の終了を発表。1度の勝利を得て、第3期F1参戦は終了を迎えました。

第4期

2013年の5月に「2015年からパワーユニットサプライヤーとしてMcLarenとのジョイントプロジェクトのもと、F1に参戦する」ことを発表。排気量1.6LのV6シングルターボに、ERS(エネルギー回生システム)を組みあわせたパワーユニット(PU)を開発。

第2期に圧倒的な強さを誇ったMcLaren Hondaコンビが復活したことに注目が集まりましたが、PUの競争力のキャッチアップは思うように進まず、2015年はコンストラクターズで9位、2016年は6位、2017年は9位と成績は低迷、その年の9月には、McLarenとのパートナーシップ終了を発表しました。

2018年には新たにScuderia Toro Rosso(スクーデリア・トロ・ロッソ、以下トロ・ロッソ)へPU供給を開始。さらにシーズン途中の6月には、同じRed Bull Group(レッドブル・グループ) のRed Bull Racing(以下レッドブル・レーシング)へもPUを供給することを発表しました。

ピエール・ガスリー2019年はレッドブル・レーシングとトロ・ロッソの2チーム体勢とすると同時に、航空エンジン研究開発部門の協力を得て、ターボの耐久性を大きく向上させるなど、Honda各所からの協力のもと、PUのパワーと信頼性を向上させることに成功しました。

パワーと信頼性が向上した新PUの効果もあり、開幕戦オーストラリアグランプリでレッドブルのオランダ人ドライバー、マックス・フェルスタッペンが3位となり、第4期初となるポディウム(表彰台)獲得を達成しました。

さらに第9戦オーストリアグランプリで、Scuderia Ferrari(フェラーリ)のルクレールとの接戦を制し、第4期初となる優勝を果たしました。マックスはこの年のドライバーズランキングで、絶対的な強さを誇っていたメルセデスの2人に続く3位を獲得。Red Bull Racing Hondaはコンストラクターズでも3位になりました。

続く2020年はマックス・フェルスタッペンがドライバーズ3位、Red Bull Racing Hondaがコンストラクターズ2位と、2014年以来7年連続でコンストラクターズ・チャンピオンを獲得しているMercedes AMG F1チームにあと1歩というところまで迫ってきました。そうした状況の中、10月2日Hondaは2021年シーズンでの第4期F1参戦終了を発表します。

背水の陣で挑んだ2021年シーズン。新骨格PUを投入したRed Bull Racing Hondaのマックス・フェルスタッペンとMercedes AMG F1のディフェンディングチャンピオン、ルイス・ハミルトンの一騎打ちとなりました。最終戦の1戦前までの段階でマックス・フェルスタッペンは優勝9回、ルイス・ハミルトンは優勝8回、最終戦までもつれ込んだタイトル争いは、最終周での接近戦を制しての劇的な勝利により幕を閉じました。マックス・フェルスタッペンにとっては初めての、そしてHondaにとっても1991年、アイルトン・セナのチャンピオン獲得から30年の時を経て手に入れたドライバーズタイトルとなりました。

マックス・フェルスタッペン マックス・フェルスタッペン

Hondaとしての参戦を終了した2022年シーズンは、ホンダ・レーシング(HRC)が、Hondaに代わるPUサプライヤーとなったレッドブル・パワートレインズへの技術的支援を行っています。またこの技術支援は、2025年まで継続することが決定しています。

SUPER GT

現在も国内で最大級の人気を誇るモータースポーツとして知られるSUPER GT。その起源は1994年に始まった全日本GT選手権からスタートし、このシリーズの特徴である、異なる2クラス(GT1クラスとGT2クラス〈それぞれ現在のGT500クラス、GT300クラスに相当〉)の車両が混走でレースをするという方式は、この当時から行われています。

Hondaは、1996年よりNSXで参戦を開始。当初はル・マン24時間で実績のあったNSX GT2をベースにしたモデルでの参戦となりました。その後は、GT500クラスの規定に準じながら改良を加えていき、リアウイングやフロントバンパーの形状を毎年のように変更することや、2004年にはターボエンジンを導入するなど、独自で車両の開発をしてきましたが、市販NSXの特徴でもあるミッドシップレイアウトをそのまま採用し続け、レースに挑んでいきました。

SUPER GTSUPER GT参戦初年度はチーム国光の1台のみでしたが、徐々に参戦台数が増えていき、2000年には5台体制による参戦となります。この年はシーズンを通して安定した活躍を披露。第2戦富士で、脇阪寿一/金石勝智組のTAKATA 童夢 NSXがシーズン初勝利を飾ると、翌第3戦SUGOでは、このレースから2000年モデルのNSXを導入した伊藤大輔/ドミニク・シュワガー組のMobil1 NSXが圧倒的な強さを見せ勝利を手にしました。さらに第4戦富士では鈴木亜久里/土屋圭市組のARTA NSXが優勝。現在ARTAの監督、そしてエグゼクティブアドバイザーを務めるふたりが、現役時代にコンビを組んで勝利を飾った1戦として、今でも多くのファンの記憶に残っています。

こうして2000年はNSX勢が7戦中4勝を挙げる大活躍を披露。なかでも、シーズンを通してCastrol無限NSXが4度の2位表彰台を獲得するなど、コンスタントにポイントを獲得。道上龍がドライバーズチャンピオンとなり、Hondaにとって初のシリーズチャンピオンを飾りました。

SUPER GT SUPER GT2005年からシリーズ名称が現在のSUPER GTに変更。Hondaは車両をNSXのままで参戦を継続、毎年のように改良を重ね、戦闘力を上げます。2007年には、ARTAの伊藤大輔/ラルフ・ファーマン組がNSXとして2度目のドライバーズタイトルを獲得しました。

2009年には初代NSXでの参戦を終了し、翌2010年から3.4リッターV型8気筒エンジンをフロントに搭載した、HSV-010 GTに車両をスイッチし、5台体制でのエントリーとなります。

2010年シーズン開幕戦の鈴鹿では複数台が絡むアクシデントが発生し、Honda勢にとっては悔しい結果になってしまったものの、続く第2戦岡山ではマシンを修復して臨んだウイダーHSV-010(小暮卓史/ロイック・デュバル)が同車両での初優勝をマークしました。その後も、HSV-010の快進撃は続いていき、第5戦SUGOでは、ウイダーHSV-010とKEIHIN HSV-010(金石年弘/塚越広大)がファイナルラップまで白熱のバトルを展開。最後は2台並んでチェッカーフラッグを受け、KEIHIN HSV-010が0.025秒差で優勝するという劇的な結末となりました。ライバル陣営も手強く、最終戦までチャンピオン争いはもつれ込みましたが、ウイダーHSV-010の小暮/デュバルが2位に入り、見事シリーズチャンピオンを獲得しました。

SUPER GTSUPER GT

2014年から技術規則が大幅に変更され、GT500クラス参戦車両は指定された共通モノコックを使用することになります。このタイミングで、Hondaは新型となる2代目NSXのコンセプトモデルをベースにしたNSX CONCEPT-GTで参戦することを決定。ミッドシップレイアウトが復活した他、新型NSXの特徴でもある回生システムも導入し、エンジンとモーターを両立した動力源を武器に、チャンピオンを目指して戦いました。

残念ながら、NSX CONCEPT-GTで挑戦した3年間で年間王座を手にすることはできませんでしたが、2017年からハイブリッド非搭載のNSX-GTに参戦車両を変更。翌2018年には元F1ワールドチャンピオンのジェンソン・バトンがレギュラー参戦を開始し、大きな注目を集めました。

SUPER GTSUPER GT

この年のNSX-GTは、車体内部の様々なパーツの搭載位置などを見直して低重心化を図ったマシンを開発。その効果もあってか、開幕戦からNSX-GT同士がサイドバイサイドのバトルを展開、KEIHIN NSX-GT(塚越広大/小暮卓史)が優勝し、RAYBRIG NSX-GT(山本尚貴/ジェンソン・バトン)が2位に入って1-2フィニッシュを達成。第3戦鈴鹿でも1-2フィニッシュを飾るなど、この年は8戦中4勝を挙げる活躍を見せました。

なかでも、毎回安定してポイントを積み重ねていった山本/バトン組がチャンピオン争いでリードしていきましたが、ライバルも手強く、最終戦もてぎでは同点での王座決戦となります。そして、バトンが粘り強くライバルを抑え込む走りをみせ、3位に入ってシリーズチャンピオンを獲得。Hondaにとっては8年ぶりの王座奪還という快挙でした。

2020年からは、SUPER GTとドイツツーリングカー選手権(DTM)が共同で策定したクラス1規定に準拠し、フロントにエンジンを搭載したNSX-GTを製作、5チーム5台体制で参戦しました。このうち、新レギュレーションで始まったシーズンは非常に大混戦となりましたが、そのなかでもHonda勢はシーズン4勝を挙げる大躍進をみせ、第7戦もてぎでは、Honda勢史上初となるトップ5独占の快挙を成し遂げました。複数台によるチャンピオン争いとなった最終戦ではRAYBRIG NSX-GT(山本尚貴/牧野任祐)が大逆転でシリーズ王者に輝きました。

SUPER GTSUPER GT

2022年から四輪レースもHRCが担うことになり、各チームの車体やドライバーのレーシングスーツには新体制発足と共に一新された「HRC」のロゴが輝いています。新しくなったHRCロゴを更に輝かすべく、技術を磨き、勝利を目指して、今後もチャレンジを続けていきます。

SUPER Formula

SUPER Formula日本国内のトップフォーミュラカテゴリーが始まったのは1973年の全日本F2000選手権。Hondaは全日本F2選手権として開催されていた1981年にRA261Eエンジンの供給を開始し、中嶋悟をはじめ、多くのドライバーとともにチャンピオンを獲得しました。

1987年には、F2に代わってヨーロッパで1985年から開催されていたF3000が日本でも始まり、全日本F3000選手権と名称を変更、エンジン出力が100馬力以上アップされ、レースの醍醐味もグレードアップすると、初年度にF3000用のV8エンジン・Honda RA387Eを搭載した星野一義がチャンピオンを獲得しました。翌1988年以降は、イコールコンディションのハードでドライバーがテクニックを競い合うことが理想と考え、メーカー供給よりもより幅広いチームに技術供給できる体制を構築するため、無限(M-TEC)に業務委託契約を結び、参戦する形をとりました。

この頃は、多くの外国人ドライバーも、全日本F3000の舞台で腕を磨き、F1をはじめ世界の舞台へ進出するなど、世界的にも注目を集めるようになっていました。1996年からフォーミュラ・ニッポンにシリーズ名称が変更されて以降も、継続して無限MF308エンジンが使用され、2005年まで国内トップフォーミュラの心臓部を支えました。

2006年以降はHondaとトヨタの2メーカーが供給する体制に変わりました。こうした中、2009年に開発した3.4リッターV型8気筒のHR09Eエンジンが大活躍を見せ、ドライバー(ロイック・デュバル)とチーム(NAKAJIMA RACING)の両タイトルを獲得しました。また、フォーミュラ・ニッポン最終年の2012年には、伊沢拓也、塚越広大を擁したDOCOMO TEAM DANDELION RACING が、チームタイトルを獲得しています。

SUPER FormulaSUPER Formula

2013年からはシリーズ名称が現在のスーパーフォーミュラに変更。その初年度に、山本尚貴(TEAM MUGEN)が最終戦で大逆転を果たし、彼にとって初のシリーズチャンピオンを記録しました。

2014年からは、規定変更に伴い2.0リッター直列4気筒ターボエンジンに変更されました。ここでHondaはHR-414Eを投入します。導入当初はライバルに遅れをとる苦しい場面もみられましたが、開発陣は諦めることなく改善に取り組み、2017年にはHR-417Eの供給を開始。この年は現在F1で活躍するピエール・ガスリー(TEAM MUGEN)が2勝を挙げてランキング2位に入る活躍を見せると、翌2018年には山本尚貴(TEAM MUGEN)がシーズン3勝を挙げ、2度目のドライバーズチャンピオンに輝きました。山本は2019年にDOCOMO TEAM DANDELION RACINGに移籍してチームタイトル獲得に貢献すると、新型エンジンのHR-420Eの供給が始まった2020年には再びドライバーズチャンピオンを獲得する活躍を見せました。

SUPER Formula

2021年もHonda系各チームが毎戦表彰台争いに絡むなど好調が続き、なかでも安定した走りをみせた野尻智紀(TEAM MUGEN)が最終戦を待たずにチャンピオンを決める快挙を成し遂げました。2022シーズンも引き続き6チーム10台にエンジンを供給。#1 野尻智紀(TEAM MUGEN)2年連続のシリーズチャンピオンを獲得、同時にTEAM MUGENがチーム部門でもシリーズチャンピオンを獲得しました。

SUPER FormulaSUPER Formula

Now Challenge参戦カテゴリー解説

2022年からは、4輪部門のレース活動もHRCとして挑戦を続けています。
HRCスピリットを継承し、熱いバトルを繰り広げる各カテゴリーをご紹介します。

国内

SUPER GT

SUPER GT

1994年に始まった全日本GT選手権から続く、セミ耐久レースの日本最高峰カテゴリー。2018~2019年シーズンには元F1王者ジェンソン・バトンがエントリーするなど、世界的に実績のあるドライバーも多く参戦して注目を集めています。

1チーム2人のドライバーがマシンをシェアし(長距離レースでは3人の場合あり)、交代を挟んで300~450kmのレース距離(2022年)を走ります。SUPER GTにはマシンの改造範囲によってクラス分けがあり、Honda、トヨタ、日産の3社が「世界最速のツーリングカー」と言われる専用のマシンでしのぎを削るGT500クラスと、世界中のメーカーの多彩な市販車ベースのマシンが参戦するGT300クラスに分かれています。速度差のある両クラスですが、同じコース上を混走してレースを行うことが特徴で、他クラスのマシンまでも利用する駆け引きも見どころのひとつです。

Hondaは全日本GT選手権の時代から参戦しており、2022年はGT500クラスの5チームに「NSX-GT」を、GT300クラスの2チームに「NSX GT3」を供給。近年では2018年に山本尚貴/ジェンソン・バトン組、2020年には山本尚貴/牧野任祐組がGT500クラスのドライバーズタイトルを獲得しています。

SUPER Formula

 SUPER Formula

全日本選手権フォーミュラ・ニッポンを引き継ぐ形で2013年にスタート。日本国内フォーミュラカーレースの最高峰として、全国各地のサーキットで戦いが繰り広げられます。

「日本最速ドライバー」の座を争うシリーズであるとともに、F1ドライバーのピエール・ガスリーや2021年インディカー・シリーズチャンピオンのアレックス・パロウなど、世界的に有名なドライバーも参戦したことから、世界のトップレースへの登竜門的存在としても注目を集めています。

車体はイタリア・ダラーラ社製、タイヤはヨコハマ製のいずれもワンメイクで、エンジンサプライヤーとしてHondaとトヨタの2社が参戦。両社がそれぞれに開発した2リッター直列4気筒直噴ターボエンジンを搭載しますが、高い技術力の中でエンジン出力はほぼ拮抗したものとなっています。マシンがほぼイコールコンディションであることから激しい接近戦が常に繰り広げられ、ドライバーの腕とチームの戦略が大きなカギを握ります。

Honda勢は6チーム10台が参戦。これまでに山本尚貴が3回(2013、2018、2020年)、野尻智紀が1回(2021年)ドライバーズチャンピオンを獲得しています。


海外

INDY CAR

INDY CAR

インディカー・シリーズは北米最高峰のモータースポーツシリーズのひとつで、アメリカとカナダで年間17戦(2022年)が行われています。コースの種類は大きく分けて3つあり、F1のようなレーシングコースで行われる“ロード”、市街地コースの“ストリート”のほか、楕円形のコースを高速で周回する“オーバル”でのレースが特徴的です。なかでも、2022年に106回目の開催を迎えた「インディ500」は、F1モナコGP、ル・マン24時間と並び“世界三大自動車レース”に数えられる伝統のレースです。オーバルコースのインディアナポリス・モーター・スピードウェイを、平均350km/h以上の超高速で200周して競われるこのレースは、全米から約30万人もの観衆を集める一大イベントとなっています。

Hondaはエンジン・マニュファクチャラーとして03年から参戦。06~11年には一社供給体制となるなど、シリーズの繁栄を支えてきました。22年は17台に2.2L V6ツインターボエンジンを供給しています。

インディカー・シリーズには世界から有力なドライバーが参戦しますが、そのひとりが元F1ドライバーの佐藤琢磨。2010年から参戦し、2013年の第3戦ロングビーチ大会で日本人ドライバーとして初優勝。さらに、インディ500を2017年に初制覇、2020年には2勝目を挙げるなど、トップドライバーとしてシリーズ中でも一目置かれる存在となっています。

WTCR

WTCR

FIA ワールド・ツーリングカー・カップ(FIA World Touring Car Cup)は、市販車をベースとしたレース用マシンで争われる国際レースカテゴリーです。前身であるWTCC世界ツーリングカー選手権と、同じくツーリングカーレースのTCR International Seriesが統合し、2018年シーズンから新シリーズが開催されています。

ヨーロッパやアジアのサーキットを舞台に、2022年は年間9戦を予定。Hondaを含む5社のメーカーが参戦し、性能差の出にくいレギュレーションもあって毎戦のように接戦が繰り広げられており、時には接触もいとわないような「ハコ車」ならではの激しいバトルが魅力です。

TCRマシンは、排気量2000cc以下のターボエンジンを搭載した4ドアまたは5ドアのFF車(前輪駆動)の市販車をベースに、TCRテクニカルレギュレーションに則ってチューニングされます。HondaはWTCC時代の2012年から参戦を開始し、日本でも親しまれているスポーツハッチバックのシビックで参戦を続けてきました。2018年のWTCR初年度からは、イタリアのJAS Motorsportとともに開発した「Civic Type R TCR」を投入。2022年は2チーム4台体制で参戦しています。

F1

F1

フォーミュラ・ワン世界選手権は自動車レースの世界最高峰カテゴリーで、一般的には「F1(エフワン)」の通称で広く知られています。

Hondaが日本メーカーとして初めてF1に参戦したのは1964年。以来、休止期間をはさみながら幾度も挑戦し、多くの勝利を手にしてきました。
2014年からF1は、内燃機関(エンジン)にエネルギー回生システムを組み合わせた「パワーユニット(PU)」を搭載するハイブリッドマシンで、レースを行うようになりました。そこにHondaは2015年から、車体開発をするチームに対してPUを供給する「パワーユニットサプライヤー」としてF1に復活しました。

複雑な条件の下でのPU開発は困難の連続で、当初は思うような成績を残すことができませんでしたが、5年目の2019年に初優勝。最終年となった2021年にはRed Bull Racing Hondaのマックス・フェルスタッペンがドライバーズチャンピオンに輝き、大きな成果をもって参戦を終了しました。

2022年からは、レッドブル・グループからのHondaへの要請に基づいて、HRCがレッドブル・パワートレインズに対してパワーユニットに関する技術支援を実施。現行のPU規則が継続される2025年まで、レッドブル・グループのチャレンジをサポートし、HRCの人と技術を一層磨き上げることを目指しています。

Message創立40周年にあたって

1982年9月1日、株式会社ホンダ・レーシング(HRC)が設立されました。
以来40年、HRC、そしてホンダのモータースポーツ活動は、数々の勝利を積み重ねてくることができました。これも、モータースポーツ・ファンの皆さまをはじめ、レース関係者、お取引先様始め関係者の皆さまのご尽力の賜物と考えており、改めて感謝を申し上げたいと思います。

8月7日、3年ぶりの開催となった鈴鹿の8耐において、各メーカーのイメージカラーをまとった応援団で一杯になったメインスタンドを見ていて、改めてモータースポーツファンのありがたさを実感しました。モータースポーツは決してライダー、ドライバー、参戦チーム、メーカーだけで成り立っている訳でなく、サーキットやスクリーンを通じて声援を送って頂いている熱いファンの存在が不可欠であると思っています。 こうしたファンの想いに応えるには、やはりお客様に、「観に来てよかった」、「観て良かった」 と思って頂ける、質の高いレースをお見せすること以外にないと思っています。 その為にHRCには、日々、技術や戦略を磨き、そして、それを実行する優れたライダー、ドライバーを育てていく使命があると思っています。

創業40年を迎えた現在、モビリティ業界を取り巻く環境は、カーボンニュートラル対応や自動運転など大転換期に差し掛かっています。同様に、レース業界に目を移してみても、カーボンニュートラルの流れは、避けては通れず、カーボンニュートラル燃料や電動化といったハード面だけでなく、レースの参戦や観戦のあり方までも、大きく変えてしまうほどのインパクトを持っています。

レースは短期間で人と技術を磨く、究極の方法です。限られた時間、そして厳格なレギュレーションの中で知恵を絞り、本気で勝ちを目指す、これがHondaそしてHRCのチャレンジの象徴であり、レースを続けていく一番の理由です。

また、挑戦し、達成した成功体験をもつ人たちがその”挑戦のDNA”を、HRCのレース領域のみならず、Hondaのさまざまな領域に浸透させることで、世の中が求めるものを生み出していける、と確信しています。
Hondaが、将来においても、社会から存在を期待される企業であるために、HRCは挑戦を続け、世の中の移動と暮らしの進化に貢献して参ります。

代表取締役社長 渡辺 康治