Video Messages from the LegendsHRCとともに勝利を挙げた選手からのメッセージや40周年の特別映像です。
2 wheels stories 2輪モータースポーツの歴史
マン島TT出場宣言からはじまったHondaのレース活動を担うため、1982年にHRCが誕生してから40年。
多くの挑戦と、栄光の歴史を振り返ります
1954年3月20日。日本の元号でいえば昭和29年。
力道山が街頭テレビで空手チョップを振るい、映画「ローマの休日」が日本公開されたこの年、日本のモータースポーツにおける大きな出来事がありました。Hondaがまだ、自転車用補助エンジン「カブF2型」を販売していた頃の話です。
「マン島TT出場宣言」。静岡県浜松市で、1948年に創立されたばかりの本田技研工業株式会社が、創立わずか6年で、オートバイの世界選手権レースに出場する、という宣言でした。
オートバイの世界選手権レースは1949年にスタート。125/250/350/500ccクラスのオートバイ(注:50ccは62~83年、80ccは84~89年のみ開催)によって行われるグランプリレースで、もちろん日本のメーカーが出場するのは初めて。宣言が発表された54年にはイギリスでマン島とベルファストの2戦、オランダ、西ドイツ、イタリア、スペインで行なわれていたグランプリレースの、最高峰といわれていたイギリス・マン島TTへの出場を宣言するもの。つまり、世界最高のオートバイレースへの挑戦でした。
宣言の主は、もちろんHondaの創始者、本田宗一郎。宣言の内容は左写真を見ていただくとして、その中に興味深い一文がある。
「私の幼き頃よりの夢は自分で製作した自動車で全世界の自動車競走の覇者になることであった」
「レースの覇者は勿論、車が無事故で完走できればそれだけで優秀車として全世界に喧伝される」
59年にマン島TTレースに初出場し、その年末には三重県・鈴鹿製作所の厚生施設を建設する会議の場で、本田は日本で初めての本格的ロードサーキット建設を提案。
その場で本田は「俺はレースをやるところが欲しいんだ。クルマはレースをやらなくては良くならない」と発言。来たるべき60年代の高速時代に対応したクルマづくりと、安全な高速走行ができるレース場を作るのがメーカーの責務である、という考えを持っていました。
マン島TTレース出場からわずか2年後の61年には、開幕戦スペインで125cc初優勝、第2戦西ドイツで250cc初優勝を挙げ、両クラスのメーカーチャンピオンを獲得したあと、本田は社報でこうも言っています。
「レースはやはりやらなきゃならない。レースによって、自分の力量や技術水準が世界のどのくらいにあるかを知ることができるし、それによって、経営の基盤をどこに置いたらよいかを決めることができるんだからね。(中略)レーサーは製品の尖兵なんで、レーサーと製品とは、いわば往復運動をやっているんだね」(1964年社報「社長のレース随感」より)
本田の思いは、グランプリレース出場からサーキット建設へとつながり、そこで得た技術は市販オートバイへと投入されて行きました。同時に64年には自動車レースの最高峰「F1グランプリ」への出場も宣言し、その活動は世界で初めての低公害エンジンの開発にもつながっていきました。
オートバイのレースへの情熱はグランプリレースだけではなく、市販モデルをベースとしたマシンによって行なわれるレースへも向いていきました。
67年でグランプリレースへの参戦を一時休止したあとも、国内のレースに参加していたHondaは、73年に鈴鹿サーキット内に「RSC」(=レーシング・サービス・センター)を別会社として設立。オートバイだけではなく、自動車も含め、国内のレースを戦うマシンの開発や、有力プライベーターへのマシン供給を担当するレーシングサービスを行なう部署として活動を始めますが、その後76年から参戦を開始した耐久選手権へのマシンも製作。この時に生まれたレーシングマシンが、ヨーロッパ耐久選手権や世界耐久選手権で活躍したRCB1000やRS1000でした。
市販モデルCB750FOURをベースとした耐久レーサーRCB1000は、76年にヨーロッパ耐久選手権に参戦するや、初年度から8戦7勝でシリーズチャンピオンを獲得し、77年には9戦全勝、78年には9戦8勝で3年連続チャンピオンを獲得。RCBの次期モデルである、新世代の市販モデルCB900FをベースとしたRS1000でも79~80年とチャンピオンを獲得し、Hondaの耐久レーシングマシンは5年連続でチャンピオンを獲得します。
さらに、1982年初頭にはパリ・ダカールラリーでシリル・ヌヴーがHonda車による初優勝を記録しました。
そして、耐久選手権での活躍と同時期にグランプリレースへの復帰を宣言したHondaは、復帰に当たってまったく新しい4ストロークエンジンのレーシングマシン開発に着手。当時のグランプリレースで主流、当たり前となっていた2ストロークエンジンに対抗すべく、楕円ピストンを使用したV型4気筒エンジンを開発。「NR」(=ニュー・レーシング)プロジェクトと名付けられたマシン開発を行なうNRブロックが、その後に2ストロークエンジンを搭載したレーシングマシンを開発するにあたり、既存のRSCと合併し、1982年9月1日にHRC(=ホンダ・レーシング・コーポレーション)が誕生。
HRCは、RSCの事業内容をさらに発展させ、レース用車両やパーツの開発、製造と販売を目的とした企業で、その後のHondaの二輪レース活動の主軸を担っていきます。
Hondaのレース部門がHRCとなって初シーズンである1983年には、フレディ・スペンサーが2ストロークマシンNS500でグランプリレース復帰からの初チャンピオンとなったほか、ジョイ・ダンロップがRS850RでTT-F1チャンピオンとなりました。また、NS500をベースとした市販レーシングマシンRS500の販売も開始しました。
1982年9月、HRC(ホンダ・レーシング・コーポレーション)としてリスタートしたHondaのレーシングスピリットは、新たな局面を迎えることになります。それは、ロードレースの最高峰であるワールドグランプリへの再挑戦でした。
1959年のマン島TT初挑戦から、66年にはグランプリ史上で初めて、50/125/250/350/500ccの全5タイトルを独占したHondaですが、67年には参戦当初の目標を達成したとして、レース活動を休止していました。
しかし、レース活動をしていなければ市販モデルや新技術を磨くこともできないと、79年に最高峰500ccクラスへの再挑戦を宣言。Hondaが選んだのは、当時のグランプリレースで主流、当たり前となっていた2ストロークエンジンに対抗して、出力面では絶対に不利だと言われた4ストロークエンジンでの挑戦でした。
「NR(ニュー・レーシング)プロジェクト」といわれたHondaのグランプリ再挑戦ですが、NRは結果を残すことができず、Hondaは2ストロークエンジンでの再出発を計画。
今度の計画は、2ストロークエンジンでも、出力面でライバルの4気筒勢に劣るとされた3気筒エンジンでスタートした「NS(ニュー・スプリント)計画」と呼ばれるものでした。
新しい2ストロークエンジンを搭載したレーシングマシンNS500は、デビューレースとなった82年3月のアルゼンチンGPで、いきなり3位表彰台を獲得。5月の第4戦スペインGPでは初ポールポジションを、そして7月の第7戦ベルギーGPではついに復帰後初優勝を飾りました。Hondaにとって、500ccクラスでは、実に14年9か月ぶりの勝利となりました。
そしてこのシーズンの後半、9月にサンマリノGPが行われるタイミングで、RSC(レーシング・サービス・センター)にNRプロジェクトのチーム、NRブロックを統合して改組されたのがHRCでした。82年春ごろから新しい組織づくりが検討され、HRCはRSCに替わってレース運営をする別会社として、83年4月に埼玉県新座市に本社屋を、三重県・鈴鹿サーキット内に鈴鹿事業所を、そしてグランプリレースの活動拠点として、ベルギーにHRC-E(HRCヨーロッパ)を構えることになります。
HRCは、NRプロジェクトを続けてきたワークスチームの技術を、RSCがサポートしてきた一般ユーザーにも還元し、底辺からレースを広げることで、モータースポーツの社会的認知度を上げていく、という狙いもあったのです。
HRCは、もちろんロードレースばかりを手掛けていたのではなく、Hondaのレース活動のすべてを担当していました。この頃のHondaのレース活動といえば、グランプリや世界耐久をはじめとするロードレース、同じくグランプリ格式のモトクロス、トライアル、それに年末から年始に行われるパリ・ダカールラリーなど。
グランプリマシンNS500の初期基礎設計も、モトクロッサーの2ストローク125ccのエンジンを3基組み合わせたものがスタートになるなど、ロードレーサーにモトクロッサーの技術が投入されることも珍しくなかったのです。
オフロードレースでいえば、モトクロスにもHondaは参戦しています。
しかし、モトクロスが盛んになり始めた1960年代には、Hondaはほぼ4ストロークエンジン専業メーカーで、モトクロスに向くと言われた2ストロークエンジンを持つオフロードモデル開発は1970年代まで待たなければなりませんでした。
72年には、まず全日本選手権にRC335A、その改良型である335C/335Dを投入。73年にはアメリカ、AMA250のタイトルも獲得し、74~75年にはAMA125クラスチャンピオンも獲得。その73年には、アメリカ向けをメインに市販モトクロッサーCR250Mを発売。圧倒的にモトクロスの盛んなアメリカではテレビCMも放映され、そのCMキャラクターは、アメリカを代表する俳優、スティーブ・マックイーンでした。
79年に始まったパリ・ダカールラリーへの参加も、HRCのレース活動の一つでした。
パリダカへの参加はホンダフランスが母体となってユーザーサポートを始めていましたが、ホンダフランスからHondaに要請のあったマシン開発を担当したのはRSC。82年の第4回大会には、RSCがエンジンチューンを担当したXR500Rを駆って、フランス人のシリル・ヌヴーが優勝。その後、人気が高まり続けるこのレースには、その後もHRCがマシン開発を担当し、86年の第8回大会でパリダカ用ワークスマシンNXR750がデビュー。NXRは86年から89年までパリ・ダカを4連覇、ここでもHondaが強さを見せつけたのです。
他にも、各国のナショナル選手権でのレース活動がありました。
アメリカでは、AHM(アメリカン・ホンダ・モーター)を母体としてモータースポーツをサポート。アメリカでのモータースポーツの頂点といえば、AMAスーパーバイクやデイトナを中心としたロードレースや、モトクロスやダートトラック。当時、Hondaのレーシングマシン開発はHRC設立以前のNRブロックが行っていたため、そのNRブロックがアメリカンダートトラック向けに、ワークスマシンNS750サイドワインダーを開発、後にHRCが設立されてからは、RS750Dを投入したこともあったのです。
日本では78年にスタートした鈴鹿8時間耐久ロードレースの人気が高まり、Hondaはヨーロッパ耐久選手権に出場していたHERT(ホンダ・エンデュランス・レーシング・チーム)がRSCで開発したRCB1000で参戦します。その後もRS1000やCB900F改のユーザーが参戦しますが、83年にはまったく新しい耐久マシンRS850Rを、翌84年からはマシン排気量規定が1000ccから750ccとなったことで、RS750を投入。ここでも、ワークスマシンを開発するのがHRCの活動でした。
日本最大のレースといわれた鈴鹿8耐では、その後もHRCがホンダワークスチームをはじめ、有力トップチームにワークスマシンを供給。78年にスタートしたこのレースでは、もっとも人気があったと言われる90年までに、79年/81年/82年/84年/85年/86年/89年と13年で7回の優勝を飾りました。
しかし、やはり世界的に一番の注目を浴びたのは、グランプリレースでした。
1959年のマン島TTレース初挑戦から、66年の全5クラス制覇、その後のレース活動の休止と、79年の復帰。82年シーズンから、表彰台登壇、ポールポジション獲得、そして復帰後の初優勝と、結果を残してきたHondaとHRCのグランプリ計画ですが、翌83年からは、次なる目標であるワールドチャンピオン獲得へと動き始めます。
Hondaがグランプリレース最高峰クラスで最後にマニュファクチャラーズタイトルを獲得したのは66年。79年にグランプリ復帰を果たしますが、その際に選んだ4ストロークエンジンを搭載したNR500は、あまりの技術的先進性ゆえ、参戦4シーズンで、優勝や表彰台はおろか、当時は決勝レースの10位にまでしか与えられていなかったポイントも獲得することができず、82年には主力マシンをNS500にスイッチすることになります。
ちなみに、この参戦4シーズンでのNR500の最高位は、予選が81年・第11戦イギリスGPの15位、決勝は82年・第7戦ベルギーGPの11位でした。
NR500は、グランプリレースだけでなく、ヨーロッパやアメリカのインターナショナルレース、全日本ロードレースにも参戦。80年のミザノ・インターナショナルレースでは決勝3位、81年の全日本ロードレース・鈴鹿200kmレースでは、ポールポジションを獲得し、NR500での初優勝も飾りますが、やはりグランプリレースでは結果を残すことができませんでした。
そして、グランプリレースでの最高位11位を果たした82年のベルギーGPで優勝したのが、NR500に替わってHondaのグランプリマシンとしてデビューしたNS500でした。NS500は、それまでNRブロックが重ねてきた膨大なトライ&エラーを生かすかたちで、初年度からランキング3位を獲得。
ライダーは、81年にNR500でHondaライダーとしてのグランプリデビューを果たしていたフレディ・スペンサーで、スペンサーはそのデビューレースで、前述のNR500による予選最高リザルト15位をマークしたライダーでもありました。
Hondaは初の2ストロークグランプリマシンNS500に、当時のグランプリレギュレーションの上限値で、ライバルメーカーすべてが採用していた4気筒エンジンを使わず、あえて出力で不利だとみられていた3気筒を選択しました。NR500時代と変わらず、オリジナルのアイディアで勝負するHondaは、ライバルにエンジンパワーで劣っても、3気筒マシンらしいハンドリングで4気筒勢と互角に戦い、ランキング3位という結果を残したのです。
スペンサーとNS500は、82年シーズンから本格参戦。デビューレースとなった開幕戦・アルゼンチンGPでは、いきなり予選2番手から決勝レースで3位表彰台を獲得すると、5月の第4戦スペインGPでは初ポールポジションを、そして7月の第7戦ベルギーGPではついに復帰後初優勝を飾り、この年のランキングでは3位を獲得。このベルギーGPでの優勝は、1960年代から数えて全クラス通算139勝目となり、いよいよ66年以来17年ぶりのワールドチャンピオンを狙います。
NS500の2年目のシーズン、スペンサーは、開幕戦からライバルメーカーのエース、ケニー・ロバーツと激戦を繰り広げ、スペンサーが開幕3連勝を決めれば、ロバーツがシーズン終盤の第8戦から3連勝を決めるなど、お互い一歩も譲らず、最終的にスペンサーがわずか2ポイント差でワールドチャンピオンを獲得。これがHondaにとってはグランプリ史上初のライダーズタイトルとなりました。
ちなみにこの83年シーズンは、12レース中でスペンサー6勝/2位3回/3位1回、ロバーツ6勝/2位3回/3位0回で、総合ポイントがわずか2ポイント差という、グランプリ史上に残る激闘として今でも語り継がれています。
84年は、いよいよNS500が4気筒のNSR500へと進化したシーズンでした。しかし、その4気筒もHondaらしいオリジナリティにあふれたもので、低重心化を狙って燃料タンクが車体下部に、排気チャンバーは通常の燃料タンクの位置にあるという車体構成。しかし新しい4気筒エンジンの熟成不足で、レースによっては旧型3気筒エンジンのNS500で出走、NSR500でもNS500でも優勝を飾るという、試行錯誤のシーズンを送ることになりました。
この年、スペンサーはランキング4位に終わりますが、同じくNSR500やNS500、さらにHRCの市販レーサーRS500を使用するライダーの活躍もあって、マニュファクチャラーズタイトルは83年に続く2連覇を達成します。
さらに世界耐久選手権ではジェラルド・コードレイ/パトリック・イゴアがチャンピオンとなり、ジョーイ・ダンロップがTT-F1世界選手権を制覇。
オフロードレースでは、アンドレ・マレベが世界選手権モトクロス500ccで、エディ・ルジャーンが世界トライアル選手権でチャンピオンとなると、そしてアメリカではHondaで初めて、USグランドナショナル・ダートトラック選手権でリッキー・グラハムがタイトルを獲得します。
そして85年はHondaにとって記念すべきシーズンとなりました。
Hondaで5年目のシーズンを迎えるスペンサーが、これまでの500ccに加え、250ccへのエントリーも表明し、1レースで2クラスを走るダブルエントリーとしたのです。
これは、80年代後半へ向けて250ccクラスのエントリー拡大を狙い、Hondaが250ccのレーシングマシンを市販しようとした中で、スペンサーにテスト走行を依頼。このマシンの素性に高評価を下したスペンサーが、自らのチャレンジとして、今まで誰も成し遂げていないダブルタイトルを目指してダブルエントリーを決意したものでした。Hondaは後に、GP125クラスに向けての市販レーサーも開発。88年に市販を開始しました。
当時、125cc/250cc/500ccクラスの3レースが行われていたグランプリで、スペンサーは250ccのレースを終えてすぐに500ccクラスの走行準備に入る、というあわただしいスケジュールを消化し、500ccクラスで7勝、250ccクラスで7勝を挙げ、そのうちダブルウインが4回という途方もない記録をマーク。結果、両クラスともチャンピオンとなり、ここに前人未到の250/500ccダブルチャンピオンが誕生したのです。
スペンサーは3月のアメリカ・デイトナ200マイルでも優勝し、アメリカでは事実上の3冠チャンピオンと呼ばれました。
Hondaはスペンサーの活躍もあり、マニュファクチャーズタイトルでも500ccクラスで3連覇、250ccクラスでは1967年以来18年ぶりのチャンピオンとなることができました。
この85年、東京都港区青山に現在のHonda本社が完成。イギリスのチャールズ皇太子とダイアナ妃がHonda本社を公式訪問したことも話題になりました。
この年のHRCは、グランプリレースを中心に、世界耐久選手権、鈴鹿8時間耐久ロードレース、TT-F1世界選手権、全日本ロードレース250/500/TT-F1/TT-F3、AMAスーパーバイク、デイトナ200マイルといったロードレースをはじめ、モトクロス世界選手権125/250/500ccクラス、AMAスーパークロス&AMAナショナル、全日本モトクロス125/250ccクラス、パリ・ダカールラリー、トライアル世界選手権、全日本トライアル選手権といったレースカテゴリーに積極的に関与し、ファクトリーマシンの投入や市販レーサーの販売をはじめとしたHondaユーザーのサポートを継続。モータースポーツの普及、発展や、Hondaとしての技術開発を続けることになるのです。
日本をはじめ、世界的にオートバイレース人気が高まった1980~90年代ですが、Hondaはその一翼を担い、HRCが全世界でレース運営、ユーザーサポートを行いました。
グランプリレースでは、スペンサーのダブルタイトルの後、500ccでは87年にワイン・ガードナー、89年にエディ・ローソン、94~98年にミック・ドゥーハン、99年にアレックス・クリビーレがライダーズタイトルを獲得し、89年、92年、94~99年にはメーカータイトルも獲得。
250ccでは87年にアントン・マンク、88~89年にアルフォンソ・ポンス、91~92年にルカ・カダローラ、97年にマックス・ビアッジがライダータイトルを獲得し、メーカータイトルも86~89年、91~94年、96~97年に獲得することができました。
特に90年代は、スペンサーと並ぶ活躍を見せたミック・ドゥーハンの登場によって、Hondaはグランプリ最強メーカーと呼ばれるにふさわしい戦績を挙げることができました。
ドゥーハンはグランプリデビュー2年目となる90年第14戦ハンガリーGPで初優勝を挙げると、91年に3勝、92年には開幕4連勝を挙げるものの、シーズン中盤の転倒で大きなダメージを負い、確実視されていたチャンピオンを獲り逃がしてしまいます。
そして93年、Honda勢がわずか2勝に終わったシーズンを経て、94年にはドゥーハンが14戦9勝、ノーポイントレースが一つもないという圧勝でチャンピオンに輝くと、95年は7勝、96年は8勝、97年は12勝、98年は8勝を挙げて5年連続チャンピオンを獲得。不調に終わったとされる93年ではありますが、HRCが新しく2ストロークマシンにフューエルインジェクションを組み合わせたマシンで、日本人グランプリライダー伊藤真一が、第6戦ドイツGPでトップスピード200mph(約320km/h)を破ったレースとしても記憶されています。
97年は15戦すべてでHondaライダーが優勝し、9戦で表彰台を独占、シリーズランキングでも上位5人がすべてHondaライダーという圧巻の成績を残す中、97年・開幕戦マレーシアGPから98年・第7戦オランダGPまで、Hondaライダーによる22連勝というグランプリ記録を打ち立てることもできました。
ドゥーハンは99年第3戦の転倒によるケガで栄光のグランプリキャリアを終えますが、90年~99年で5回のライダータイトルを獲得し、通算54勝という偉大な成績を残すことになりました。
ここまでHondaの500ccクラスでのレース活動では、60年代に10勝、グランプリに復帰して2ストロークNS500/NSR500を走らせた82年以降は、スペンサーのダブルタイトルの85年までで25勝、86年から89年までの4年間で20勝、そして99年までに83勝を、そしてグランプリレースの最高峰クラスが4ストロークエンジンを使用するMotoGP世代が始まるまでの2001年までに18勝を挙げ、500cc時代に合計156勝をマーク。
そして2001年の開幕戦・日本グランプリでは、125/250/500cc通算500勝を達成。グランプリは、マシン規定が大きく変わるMotoGP世代を迎えることになるのです。
1949年にグランプリレースがスタートして以来、最高峰クラスはずっと排気量500ccのレーシングマシンで行われてきました。
そのグランプリレースにHondaが初めて参戦したのが1959年、最初は4ストローク2気筒エンジンのRC141で125ccクラスに、翌60年にRC161で250ccクラスに参戦。350ccクラスへは62年のRC170から、そして最高峰の500ccクラスへは66年のRC181で参戦をスタートしました。
しかし、最高峰クラスは、この「500cc」という排気量が上限であり、そのエンジンは2ストロークとも4ストロークとも規定されていませんでした。特にHondaはこの頃ほぼ4ストロークエンジン専門のメーカーで、同じ排気量ならば2ストロークの方が出力を出しやすい、という常識と常に戦ってのレース活動だったのです。
67年を最後にHondaがグランプリレースから撤退した後は、まさに2ストローク全盛時代。特に500ccクラスは、50年代からMVアグスタの4ストロークマシンが圧倒的強さを誇り、57年にジレラに、66年にHondaに王座を譲ったシーズン以外は、56年から73年までの18年で16回のメーカータイトルを獲得していました。
そのMVアグスタ最強時代を終わらせたのが、74年、デビュー2年目のヤマハ2ストロークマシンYZR500で、その後はスズキRG/RGA/RGB/RGC500/RGΓが76年から82年まで7連覇を果たします。
Hondaがグランプリに復帰した4ストロークのNR500も結果を出すことができず、83年にはHondaの2ストロークマシンNS500がタイトルを獲得し、その後4ストロークマシンがタイトルを取ることはありませんでした。
しかし90~2000年代にかけて、主に排気ガスや騒音の規制もあって、市販車を含めて2ストロークエンジンモデルが減少していきました。
グランプリでもそれは例外ではなく、もはや市販モデルにつながらない2ストロークエンジンでのレースを続けてはならないのではないかという議論が始まり、ついに2000年4月に、グランプリレースを統括するFIMがグランプリマシンの4ストローク化を宣言したのです。その内容は、2002年からグランプリの最高峰クラスを500ccクラスからMotoGPクラスと改称し、従来の2ストローク500ccマシンに加え、4ストローク990ccマシンの参加も認めるというものでした。
この新しい時代のグランプリに向けてHRCが開発を進めたのは、4ストローク990ccのV型エンジンで、しかも5気筒というレイアウト。これは、マシンの最低重量がエンジン気筒数ごとに規定される中、高回転を狙う多気筒化と最低重量のバランスが取れているとして選んだエンジン型式でした。
V型5気筒エンジンを搭載し、ユニットプロリンクと呼ばれるリアサスペンションを持つ新世代4ストローク990ccのグランプリマシンの車名はRC211V――ホンダのグランプリマシンを表わす「RC」と、21世紀でナンバー1を獲るという「211」、それにV型エンジンと5気筒を表わす「V」を組み合わせた車名でした。
グランプリに多気筒4ストロークエンジンを持ち込んだ60年代、2ストローク全盛の時代に4ストロークマシンNR500を持ち込んだ70年代、そして2ストローク4気筒に3気筒エンジンで立ち向かった80年代に続き、今まで誰も見たことがないV型5気筒というエンジン型式を持ち込んだのも、またHondaらしいオリジナルなアイディアでした。
RC211Vは、MotoGP時代の幕開けとなる2002年開幕戦、雨の日本グランプリでバレンティーノ・ロッシがRC211Vデビューウインを達成。その後もライバルを圧倒し、RC211Vは16戦14勝を達成。ロッシが11勝、アレックス・バロスが2勝、宇川徹が1勝という、まさに圧勝のシーズンでした。
2003年シーズンも16戦14勝を挙げたRC211Vは、Hondaに2年連続のメーカータイトルをもたらし、ロッシも2年連続チャンピオンに輝きました。
2004年は、ロッシがライバルメーカーへ移籍したこともあって、ライダータイトルこそライバルメーカーに奪われますが、メーカータイトルは2001年から4連覇を達成。ただ、2005年はMotoGP世代となって初めてライダー/メーカータイトルをライバルメーカーに明け渡してしまいます。
そして2006年は、翌2007年からマシン排気量規定を800ccとすると発表されての990ccラストイヤー。ここでHRCは、いち早く990ccエンジンのまま800ccサイズのRC211V「ニュージェネレーション」を製作し、ニッキー・ヘイデンに供給。レギュレーション改正を見越して1年早くマシン準備をするのは、1984年にTT-F1マシンのレギュレーションが1000ccから750ccに変更されるのを見越して、1年早くマシン排気量を1000ccから850ccに変更して鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場した83年と同じ、Hondaらしい手法でした。
ヘイデンは2006年、第8戦オランダGPでHondaの最高峰クラス200勝目を挙げ、最終戦までもつれたライダータイトル争いでは、最終戦でロッシを逆転。メーカータイトルも奪還し、MotoGPの990cc時代、82レース中の50%を超える勝率をマーク。990cc世代のラストイヤーを飾ることになります。
2007年からMotoGPマシンが800cc規定となって、独創のV型5気筒エンジンはV型4気筒に変更され、車名もRC212Vに変更されます。この2007~2010年には、ライダー/メーカータイトルとも獲ることができませんでしたが、2011年にはケーシー・ストーナーがHondaに加入してライダー&メーカータイトルを奪還、2012年にはメーカータイトルを獲得すると、2013年には前年までMoto2クラスを走っていたマルク・マルケスがいよいよHonda陣営に加入します。
Moto2クラスとは、2ストロークマシンのGP250が4ストローク化されて2010年にスタートしたクラスで、オリジナルシャーシのメーカーがHondaCBR600RRのエンジンを搭載するマシンで行うレースです。
マルケスは、GP125クラスを3年を経て、このMoto2クラスを2年目でライダータイトルを獲得、2013年にMotoGPクラスにステップアップし、Hondaファクトリーチームに加入。そのデビューシーズンから最年少でチャンピオンを獲得し、2014年、そして2016~2019年にもライダータイトルを獲得するなど、Hondaのレース活動史に残る活躍を見せてくれています。
2020年からはケガの影響で納得のいく結果を出せていませんが、ケガが癒えたら、また以前のような目覚ましい活躍をしてくれるものと期待しています。
2002年から20年に渡るシーズンは、やはり上記のようなMotoGPでの活動が主なものとなりますが、もちろんHRCのレース活動は、オンロード/オフロード/トライアル/ラリー、その世界選手権から各国のナショナル選手権までカバーしてきました。
2013年初頭には、南米で行われるようになったダカールラリー(旧称:パリ・ダカールラリー)に、24年ぶりにファクトリーチームとして参戦。2020年には、復帰後初となる総合優勝を果たすことができました。
また2002年には、自転車競技であるマウンテンバイク・ダウンヒル競技に向けて、ダウンヒル競技専用マウンテンバイクRN-01を開発し、マウンテンバイク・ジャパンシリーズやワールドカップにマシンを供給しました。この、一見オートバイとは関係のない活動にしても、マウンテンバイクの変速メカニズムを、のちのMotoGPマシンのミッション開発の一助にするなど、全く異なるカテゴリーからのフィードバックも欠かしませんでした。
そして2022年には、4輪レース部門であるHRD Sakura(栃木県さくら市を本拠とするホンダ・リサーチ・アンド・デベロップメント)とHRCが合流。創立40年を経て、いよいよ新しい時代に突入していくことになります。
2022年、Hondaの二輪レース部門を運営するHRCに、四輪レース開発を担うHRD Sakuraが合流。HRCが創立40周年を機に、新しい時代を迎えることになりました。
もちろん、二輪モータースポーツに関して、これまで通り、各チャンピオンシップにファクトリーマシンを供給、有力チーム、プライベーターをサポートする姿勢は変わりません。
HRCは、こうしたモータースポーツへのサポートを続け、モータースポーツを志すライダー、ドライバーを育てていく使命があると考えています。
現在、モビリティを取り巻く環境は、大幅な変革期にあります。その中でHondaは「2050年にHondaの関わるすべての製品と企業活動を通じて、カーボンニュートラルをめざすこと」を宣言しました。
もちろん、モータースポーツの世界においてもカーボンニュートラルへの対応は重要であると考えおり、電動化やカーボンニュートラル燃料対応といった技術開発を重点的に進めています。
すでにグランプリレースを統括するFIMからは、MotoGPにおいて、将来的にゼロカーボン燃料を導入することを発表しています。具体的には2024年までにMotoGPマシンの使用燃料の最低40%を、そして2027年までに100%の非化石由来の燃料を使用する、という方針を発表。これはMoto2とMoto3クラスについても同様で、2027年には100%持続可能な燃料に変更する、と発表されました。
もちろん、これは従来通りの標準的な内燃機で使用されるものとされていて、MotoGP/Moto2/Moto3マシンが、すぐにハイブリッドシステムを採用する、というものではありません。今はHondaをはじめ、MotoGPマシンのメーカーすべてが最善のロードマップを描けるよう、折衝を重ねているところなのです。
新たにHRCの業務にも加わったF1に関しては、Hondaに代わるパワーユニットサプライヤーとなったレッドブル・パワートレインズへの技術的支援を行いながら、この命題に向き合っていくことになります。
Hondaは2030年までに、自動車の世界で軽商用車からフラッグシップクラスまで、グローバルで30機種のEVを展開し、その年間生産台数は200万台を超える計画である、と発表しました。
二輪車においても、Hondaは「2040年代に全ての二輪製品でのカーボンニュートラルを実現することを目指す」ことを宣言。ICE(内燃機関)の進化にも継続的に取り組みながら、今後の環境戦略の主軸として、二輪車の電動化を加速させる方針を明らかにしました。
HRCは、レースで培われた人材と技術を通じて、二輪・四輪を始めたとしたHonda製品のカーボンニュートラル化に貢献することを目指します。
持続可能なモビリティ、持続可能なモータースポーツのために、これからの40年もHRCはチャレンジを続けます。
Champions GalleryHRC チャンピオンライダー名鑑
HRCとともに戦い、数々の激闘の果てに、見事王座を獲得した歴代のチャンピオンたちをご紹介します。
彼らの偉業を、ここに改めて称えます
*2022年12月23日時点
- フレディ・スペンサー WGP 1983,1985(500cc,250cc)
- ワイン・ガードナー WGP 1987
- エディ・ローソン WGP 1989
- アレックス・クリビーレ WGP 1999
- ミック・ドゥーハン WGP 1994-1998
- バレンティーノ・ロッシ WGP/MotoGP 2001-2002,2003(MotoGP)
- ニッキー・ヘイデン MotoGP 2006
- ケーシー・ストーナー MotoGP 2011
- マルク・マルケス MotoGP 2013-2014、2016-2019
- アレックス・マルケス Moto3 2014
- アントン・マンク WGP 1987
- シト・ポンス WGP 1988-1989
- ルカ・カダローラ WGP 1991-1992
- マックス・ビアッジ WGP 1997
- 加藤大治郎 WGP 2001
- ダニ・ペドロサ WGP 2004-2005
- 青山博一 WGP 2009
- アンドレ・マラーベ MXGP 1984
- デビッド・ソープ MXGP 1985-1986,1989
- エリック・ゲボス MXGP 1987(250), 1988(500), 1990(500)
- ジョルジュ・ジョベ MXGP 1987, 1991, 1992
- ジャン・ミッシェル・バイル MXGP, AMA-SX,AMA-MX 1988(FIM MX125), 1989(FIM MX250), 1991(AMA SX250, AMA MX250, AMA MX500) ,
- ティム・ガイザー MXGP 2015(MX2) , 2016(MXGP) , 2019-2020(MXGP),2022(MXGP)
- トランパス・パーカー MXGP 1991
- グレッグ・アルバーティン MXGP 1992(125), 1993(250)
- マルクス・ハンソン MXGP 1994
- ステファン・エバーツ MXGP 1996-1997
- フレデリック・ボレー MXGP 1999-2000
- アレッサンドロ・プツァール MXGP 1995
- ババ・ショバート AMA Grand National,
AMA Superbike 1985-1987(Grand National), 1988(Superbike) - ダリル・シュルツ AMA-MX 1982
- デビッド・ベイリー AMA-MX, AMA-SX 1983(SX250, MX250), 1984(MX500), 1986(MX500)
- リック・ジョンソン AMA-MX, AMA-SX 1986(SX250, MX250), 1987(MX250, MX500), 1988(SX250, MX500)
- ドニー・ハンセン AMA-MX, AMA-SX 1982
- ジョニー・オマラ AMA-MX, AMA-SX 1983(MX125), 1984(SX250)
- ジェフ・スタントン AMA-MX, AMA-SX 1989(SX250, MX250), 1990(SX250, MX250), 1992(SX250, MX250)
- ジェレミー・マクグラス AMA-MX, AMA-SX 1991-1992(SX125 West), 1993-1996(SX250),1995(MX250)
- リッキー・カーマイケル AMA-MX, AMA-SX 2002-2003(SX250, MX250), 2004(MX250)
- デイビー・ミルサップス AMA-SX 2006
- トレイ・カナード AMA-MX, AMA-SX 2008(SX250 East), 2010(MX250)
- ジャスティン・バーシア AMA-SX 2011, 2012
- イーライ・トマック AMA-MX, AMA-SX 2012(SX250 East), 2013(MX250)
- ウィル・ハーン AMA-SX 2013
- ジャスティン・ボーグル AMA-SX 2014
- マルコム・スチュワート AMA-SX 2016
- チェイス・セクストン AMA-SX 2019-2020
- ジェット・ローレンス AMA-MX, AMA-SX 2021(MX250), 2022(X250 East, MX250)
- ロン・ラシーン AMA-MX 1985
- ミッキー・ダイモンド AMA-MX 1986-1987
- キース・ターピン AMA-SX 1986
- ジョージ・ホランド AMA-MX 1988
- マイク・キドラウスキー AMA-MX 1989
- ブライアン・スウィンク AMA-SX 1991
- ダグ・ヘンリー AMA-MX, AMA-SX 1993(SX125 East, MX125), 1994(MX125)
- スティーブ・ラムソン AMA-MX 1995-1996
- トラビス・プレストン AMA-SX 2002
- タイ・デイビス AMA-SX 2002
4 wheels stories 4輪モータースポーツの歴史
4輪部門のレースでは、Hondaとしてチャレンジを続けてきました。
F1をはじめとする各カテゴリーでの、挑戦の歩みを振り返ります。
第1期
1964年8月2日、F1第6戦ドイツグランプリ。アイボリーカラーに赤い日の丸を入れた1台のF1マシンが、ニュルブリンクサーキット決勝のスターティンググリッドに並びました。ドライバーは実績のない若いアメリカ人、ロニー・バックナムです。予選はうまくいかず、グリッドはいちばん後ろの22番手。この場所から、HondaF1レースの歴史がスタートしました。後方には誰もおらず、ただ1台でも多くのマシンを追い抜くことを目指して進むことから始まったのです。
オートバイのマン島TTレースでは圧倒的な強さで初優勝をするなど、オートバイメーカーとして世界で知られるようになったHondaは、F1初参戦の前年に、小型スポーツカーS500と軽トラックのT360を発売したとはいうものの国内最後発の4輪メーカーとして歩みだしたばかりでした。そんな4輪での実績がほとんどないHondaがF1参戦を決意し、挑むことが、どれだけ無謀な挑戦だったか、はかりしれないほどでした。
プロトタイプのRA270からさらに開発を進め、RA271と名付けられた日本で最初の実戦フォーミュラカーは、満足に走れなかった予選とは裏腹に、決勝では一時9番手を走行しました。残り3周のところでクラッシュ、リタイアしましたが、快進撃といえるスピードを見せ、手応えと自信を得ました。
初勝利の歓喜は全戦出場となった1965年に訪れました。この年は前年からのロニー・バックナムに加えて、同じアメリカ人のリッチー・ギンザーをドライバーに迎え入れ2台体勢で参戦。最終戦となった第10戦メキシコグランプリで、改良されたRA272は、標高の高いサーキットに合わせて念入りにセッティングされ、リッチー・ギンサーが3番手のスターティンググリッドを獲得。
そして全周回でトップを走り抜け、初めての優勝をHondaにもたらしました。チームメートのロニー・バックナムも5位入賞です。初参戦からわずか2年目でたどり着いた頂点は、偶然ではなく実力でつかんだ念願の優勝でした。同時にHondaは、4輪でも世界に通じる技術力があることを証明したのです。
1966年からレギュレーションの変更によって、エンジン排気量は1.5Lから3.0L になりました。1967年には、2輪レースで無敵の活躍をしてからF1ドライバーになったイギリス人のジョン・サーティースが加入。このシーズンはサーティースひとりだけの参戦です。第9戦イタリアグランプリ、モンツァ・サーキットで突貫作業によって完成したばかりのRA300を駆ったサーティースは、9番手グリッドから順位を上げていき、最後はジャック・ブラバムとの一騎打ちになりました。
最終コーナーを交錯しながら立ち上がり、ゴールラインを目指したサーティースは、わずか1車身の差で先にチェッカーフラッグを受けたのです。
2度目の歓喜だけでなく、この年は3位が1回、4位2回を記録して、ドライバーとコンストラクターのランキングで4位を獲得。後に第1期と呼ばれるF1レース参戦の最高潮となるシーズンとなりました。
Hondaは、社会問題となっていた排出ガス問題に対応する低公害エンジン開発や、本格的な乗用車メーカーとしての地歩を固めるため、1968年シーズンでF1参戦の休止を決めました。
本田宗一郎は、1965年のメキシコGP優勝後の記者会見で、「我々は、自動車をやる以上、1番困難な道を歩くんだということをモットーでやってきた。勝っても負けてもその原因を追求し、品質を高めて、より安全なクルマをユーザーに提供する義務がある。そして、やる以上、1番困難な道を敢えて選び、グランプリレースに出場したわけです。勝っておごることなく、勝った原因を追求して、その技術を新車にもどしどし入れていきたい」と語っていました。
第1期F1参戦で勝利を目指して開発に没頭した技術者たちは、その後の4輪量産車開発の中でも、大きな役割を担っていきました。
第2期
休止していたレース活動を再開するにあたり、その足がかりとして1980年のヨーロッパF2選手権へのエンジン供給から始めました。F1レースは技術の進化やレギュレーションの変更のみならず、取り巻く環境も含めて前回参戦の頃から大きく様変わりしていました。
Hondaは、F1レースの経験がない若い技術者が多い中で、まずはF2でレースの経験を積んでからステップアップしていくことを選びました。
第2期の2年目となる1981年には、ラルト・Honda のイギリス人ドライバーのジェフ・リースがヨーロッパF2選手権を制覇。Hondaエンジンは1983年から1984年にかけて12連勝する強さをみせる結果を残しました。
そのさなかにF1エンジンの開発を進め、1983年7月、F2レースでもエンジンを提供していたスピリット・レーシングが制作したF1シャシーにHondaF1エンジンが搭載され、F1レースに復帰したのです。
新たなF1参戦は、F2レースと同様に車体は作らず、エンジンを供給する方法を選択しました。復帰後初のレースはわずか5周でリタイアとなりましたが、その年の最終戦には名門チームのウイリアムズにHonda製ターボ過給のV型6気筒1.5Lエンジンを供給、5位に入賞しています。
翌1984年7月は、第9戦ダラスグランプリでHondaエンジンのウイリアムズFW09のハンドルを握ったフィンランド人、ケケ・ロズベルグが優勝。継続してウイリアムズチームとタッグを組んだ1985年は、シーズン途中に新エンジンを投入してから4勝。さらなる勝利を積み重ねるべく臨んだ1986年、ウイリアムズ・Hondaチームは16戦中9勝する強さでコンストラクターズタイトルを手にしました。
以後1991年までコンストラクターズタイトルを6年連続で獲得。1988年にはマクラーレン・Hondaが全16戦中15勝と圧倒的な成績を残しました。
この間、ドライバーズタイトルでも1987年のネルソン・ピケ(ウイリアムズ・Honda)、1988年のアイルトン・セナ(マクラーレン・Honda)、ターボが禁止され3.5Lの自然吸気エンジンに変わった1989年のアラン・プロスト(マクラーレン・Honda)、1990年と1991年のアイルトン・セナ(マクラーレン・Honda)が、Hondaエンジンでチャンピオンを獲得しました。
Hondaの強さを支えた要因の一つに、車体各部にセンサーを設けるなどして集めたさまざまなデータをモニタリングできるテレメトリーシステムを開発、それまでの経験や勘で行っていたマシンのセッティングに代わり、データに基づいたコンピューターによる電子制御をF1レースの世界へいち早く持ち込んだことがあります。これ以降、F1レースの電子制御化は加速度的に進んでいきました。
そして参戦から10年が過ぎた1992年に、Hondaは第2期F1参戦を終了することを発表。1983年の参戦から撤退する1992年までに排気量1.5LのV6ターボ、排気量3.5LのV10自然吸気、排気量3.5LのV12自然吸気とエンジンを開発し、その間に69勝の成果を挙げました。
第3期
3度目の参戦は2000年。第1期と同じく、エンジン開発・供給に加えて新たに車体の開発・製造およびチーム運営を含めた“HondaのF1レーシングチーム”として参戦することを、1998年春に発表しました。
しかし、1年後の1999年5月、Hondaは参戦2年目のB・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)をパートナーに、エンジン開発・供給に加え、車体を共同開発する道を選び(チーム運営についてはB・A・Rに委託)、2000年より3度目 のF1グランプリへの挑戦が始まりました。
とはいえ、F1における技術的進歩は著しく、7年間活動を休止していたHondaにとって、後れを取り戻すことは並大抵のことではなく、2000年から2003年にかけては、5位→6位→8位→5位とコンストラクターズでの上位進出は達成できないまま推移しました。
2004年にはB・A・R・Hondaチームのドライバーは、イギリス人のジェンソン・バトンと、2001年・2002年とエンジンを供給したジョーダンチームからB・A・Rに移籍してきた佐藤琢磨がレギュラードライバーとして昇格。オフシーズンテストからの好調を維持、復帰から5年目にしてついにトップチームと並べる速さを手に入れました。
ジェンソン・バトンは、優勝こそないものの、第4戦のサンマリノグランプリでは第3期初のポールポジションを獲得し、3度の3戦連続表彰台など、シーズンを通して上位をキープ。年間で2位を4回、3位を6回記録し、ドライバーズランキング3位に入りました。
また、佐藤琢磨が6月の第9戦アメリカグランプリで日本人ドライバーとして14年ぶりの表彰台に立ち、日本のF1ファンに喜びをもたらしました。この年、ドライバー2人の活躍により、コンストラクター部門でも2位と躍進しました。
そして排気量3.0LのV10から排気量2.4LのV8にエンジンルールが変更された2006年、B・A・Rの全株式を取得して第3期参戦検討開始時の構想にあったフルコンストラクターでの参戦が38年ぶりに実現したのです。
そして8月の第13戦、ハンガロリンクで開催されたハンガリーグランプリで、ついにその時がやって来ます。ウエットレースという難しいコンディションの中で、ジェンソン・バトンがトップでゴール。第3期初の栄冠は1967年第9戦イタリアグランプリのジョン・サーティース以来のフルコンストラクターによる優勝。ジェンソン・バトンにとってもF1参戦115戦目の初勝利でした。
2006年シーズンは、最終的にコンストラクターズ・ポイントで4位で終わったものの、翌2007年は8位、2008年も9位と成績は低迷、リーマンショックの発生など、大きな環境変化が起こった2008年シーズン終了後の12月、第3期F1参戦の終了を発表。1度の勝利を得て、第3期F1参戦は終了を迎えました。
第4期
2013年の5月に「2015年からパワーユニットサプライヤーとしてMcLarenとのジョイントプロジェクトのもと、F1に参戦する」ことを発表。排気量1.6LのV6シングルターボに、ERS(エネルギー回生システム)を組みあわせたパワーユニット(PU)を開発。
第2期に圧倒的な強さを誇ったMcLaren Hondaコンビが復活したことに注目が集まりましたが、PUの競争力のキャッチアップは思うように進まず、2015年はコンストラクターズで9位、2016年は6位、2017年は9位と成績は低迷、その年の9月には、McLarenとのパートナーシップ終了を発表しました。
2018年には新たにScuderia Toro Rosso(スクーデリア・トロ・ロッソ、以下トロ・ロッソ)へPU供給を開始。さらにシーズン途中の6月には、同じRed Bull Group(レッドブル・グループ) のRed Bull Racing(以下レッドブル・レーシング)へもPUを供給することを発表しました。
2019年はレッドブル・レーシングとトロ・ロッソの2チーム体勢とすると同時に、航空エンジン研究開発部門の協力を得て、ターボの耐久性を大きく向上させるなど、Honda各所からの協力のもと、PUのパワーと信頼性を向上させることに成功しました。
パワーと信頼性が向上した新PUの効果もあり、開幕戦オーストラリアグランプリでレッドブルのオランダ人ドライバー、マックス・フェルスタッペンが3位となり、第4期初となるポディウム(表彰台)獲得を達成しました。
さらに第9戦オーストリアグランプリで、Scuderia Ferrari(フェラーリ)のルクレールとの接戦を制し、第4期初となる優勝を果たしました。マックスはこの年のドライバーズランキングで、絶対的な強さを誇っていたメルセデスの2人に続く3位を獲得。Red Bull Racing Hondaはコンストラクターズでも3位になりました。
続く2020年はマックス・フェルスタッペンがドライバーズ3位、Red Bull Racing Hondaがコンストラクターズ2位と、2014年以来7年連続でコンストラクターズ・チャンピオンを獲得しているMercedes AMG F1チームにあと1歩というところまで迫ってきました。そうした状況の中、10月2日Hondaは2021年シーズンでの第4期F1参戦終了を発表します。
背水の陣で挑んだ2021年シーズン。新骨格PUを投入したRed Bull Racing Hondaのマックス・フェルスタッペンとMercedes AMG F1のディフェンディングチャンピオン、ルイス・ハミルトンの一騎打ちとなりました。最終戦の1戦前までの段階でマックス・フェルスタッペンは優勝9回、ルイス・ハミルトンは優勝8回、最終戦までもつれ込んだタイトル争いは、最終周での接近戦を制しての劇的な勝利により幕を閉じました。マックス・フェルスタッペンにとっては初めての、そしてHondaにとっても1991年、アイルトン・セナのチャンピオン獲得から30年の時を経て手に入れたドライバーズタイトルとなりました。
Hondaとしての参戦を終了した2022年シーズンは、ホンダ・レーシング(HRC)が、Hondaに代わるPUサプライヤーとなったレッドブル・パワートレインズへの技術的支援を行っています。またこの技術支援は、2025年まで継続することが決定しています。
現在も国内で最大級の人気を誇るモータースポーツとして知られるSUPER GT。その起源は1994年に始まった全日本GT選手権からスタートし、このシリーズの特徴である、異なる2クラス(GT1クラスとGT2クラス〈それぞれ現在のGT500クラス、GT300クラスに相当〉)の車両が混走でレースをするという方式は、この当時から行われています。
Hondaは、1996年よりNSXで参戦を開始。当初はル・マン24時間で実績のあったNSX GT2をベースにしたモデルでの参戦となりました。その後は、GT500クラスの規定に準じながら改良を加えていき、リアウイングやフロントバンパーの形状を毎年のように変更することや、2004年にはターボエンジンを導入するなど、独自で車両の開発をしてきましたが、市販NSXの特徴でもあるミッドシップレイアウトをそのまま採用し続け、レースに挑んでいきました。
参戦初年度はチーム国光の1台のみでしたが、徐々に参戦台数が増えていき、2000年には5台体制による参戦となります。この年はシーズンを通して安定した活躍を披露。第2戦富士で、脇阪寿一/金石勝智組のTAKATA 童夢 NSXがシーズン初勝利を飾ると、翌第3戦SUGOでは、このレースから2000年モデルのNSXを導入した伊藤大輔/ドミニク・シュワガー組のMobil1 NSXが圧倒的な強さを見せ勝利を手にしました。さらに第4戦富士では鈴木亜久里/土屋圭市組のARTA NSXが優勝。現在ARTAの監督、そしてエグゼクティブアドバイザーを務めるふたりが、現役時代にコンビを組んで勝利を飾った1戦として、今でも多くのファンの記憶に残っています。
こうして2000年はNSX勢が7戦中4勝を挙げる大活躍を披露。なかでも、シーズンを通してCastrol無限NSXが4度の2位表彰台を獲得するなど、コンスタントにポイントを獲得。道上龍がドライバーズチャンピオンとなり、Hondaにとって初のシリーズチャンピオンを飾りました。
2005年からシリーズ名称が現在のSUPER GTに変更。Hondaは車両をNSXのままで参戦を継続、毎年のように改良を重ね、戦闘力を上げます。2007年には、ARTAの伊藤大輔/ラルフ・ファーマン組がNSXとして2度目のドライバーズタイトルを獲得しました。
2009年には初代NSXでの参戦を終了し、翌2010年から3.4リッターV型8気筒エンジンをフロントに搭載した、HSV-010 GTに車両をスイッチし、5台体制でのエントリーとなります。
2010年シーズン開幕戦の鈴鹿では複数台が絡むアクシデントが発生し、Honda勢にとっては悔しい結果になってしまったものの、続く第2戦岡山ではマシンを修復して臨んだウイダーHSV-010(小暮卓史/ロイック・デュバル)が同車両での初優勝をマークしました。その後も、HSV-010の快進撃は続いていき、第5戦SUGOでは、ウイダーHSV-010とKEIHIN HSV-010(金石年弘/塚越広大)がファイナルラップまで白熱のバトルを展開。最後は2台並んでチェッカーフラッグを受け、KEIHIN HSV-010が0.025秒差で優勝するという劇的な結末となりました。ライバル陣営も手強く、最終戦までチャンピオン争いはもつれ込みましたが、ウイダーHSV-010の小暮/デュバルが2位に入り、見事シリーズチャンピオンを獲得しました。
2014年から技術規則が大幅に変更され、GT500クラス参戦車両は指定された共通モノコックを使用することになります。このタイミングで、Hondaは新型となる2代目NSXのコンセプトモデルをベースにしたNSX CONCEPT-GTで参戦することを決定。ミッドシップレイアウトが復活した他、新型NSXの特徴でもある回生システムも導入し、エンジンとモーターを両立した動力源を武器に、チャンピオンを目指して戦いました。
残念ながら、NSX CONCEPT-GTで挑戦した3年間で年間王座を手にすることはできませんでしたが、2017年からハイブリッド非搭載のNSX-GTに参戦車両を変更。翌2018年には元F1ワールドチャンピオンのジェンソン・バトンがレギュラー参戦を開始し、大きな注目を集めました。
この年のNSX-GTは、車体内部の様々なパーツの搭載位置などを見直して低重心化を図ったマシンを開発。その効果もあってか、開幕戦からNSX-GT同士がサイドバイサイドのバトルを展開、KEIHIN NSX-GT(塚越広大/小暮卓史)が優勝し、RAYBRIG NSX-GT(山本尚貴/ジェンソン・バトン)が2位に入って1-2フィニッシュを達成。第3戦鈴鹿でも1-2フィニッシュを飾るなど、この年は8戦中4勝を挙げる活躍を見せました。
なかでも、毎回安定してポイントを積み重ねていった山本/バトン組がチャンピオン争いでリードしていきましたが、ライバルも手強く、最終戦もてぎでは同点での王座決戦となります。そして、バトンが粘り強くライバルを抑え込む走りをみせ、3位に入ってシリーズチャンピオンを獲得。Hondaにとっては8年ぶりの王座奪還という快挙でした。
2020年からは、SUPER GTとドイツツーリングカー選手権(DTM)が共同で策定したクラス1規定に準拠し、フロントにエンジンを搭載したNSX-GTを製作、5チーム5台体制で参戦しました。このうち、新レギュレーションで始まったシーズンは非常に大混戦となりましたが、そのなかでもHonda勢はシーズン4勝を挙げる大躍進をみせ、第7戦もてぎでは、Honda勢史上初となるトップ5独占の快挙を成し遂げました。複数台によるチャンピオン争いとなった最終戦ではRAYBRIG NSX-GT(山本尚貴/牧野任祐)が大逆転でシリーズ王者に輝きました。
2022年から四輪レースもHRCが担うことになり、各チームの車体やドライバーのレーシングスーツには新体制発足と共に一新された「HRC」のロゴが輝いています。新しくなったHRCロゴを更に輝かすべく、技術を磨き、勝利を目指して、今後もチャレンジを続けていきます。
日本国内のトップフォーミュラカテゴリーが始まったのは1973年の全日本F2000選手権。Hondaは全日本F2選手権として開催されていた1981年にRA261Eエンジンの供給を開始し、中嶋悟をはじめ、多くのドライバーとともにチャンピオンを獲得しました。
1987年には、F2に代わってヨーロッパで1985年から開催されていたF3000が日本でも始まり、全日本F3000選手権と名称を変更、エンジン出力が100馬力以上アップされ、レースの醍醐味もグレードアップすると、初年度にF3000用のV8エンジン・Honda RA387Eを搭載した星野一義がチャンピオンを獲得しました。翌1988年以降は、イコールコンディションのハードでドライバーがテクニックを競い合うことが理想と考え、メーカー供給よりもより幅広いチームに技術供給できる体制を構築するため、無限(M-TEC)に業務委託契約を結び、参戦する形をとりました。
この頃は、多くの外国人ドライバーも、全日本F3000の舞台で腕を磨き、F1をはじめ世界の舞台へ進出するなど、世界的にも注目を集めるようになっていました。1996年からフォーミュラ・ニッポンにシリーズ名称が変更されて以降も、継続して無限MF308エンジンが使用され、2005年まで国内トップフォーミュラの心臓部を支えました。
2006年以降はHondaとトヨタの2メーカーが供給する体制に変わりました。こうした中、2009年に開発した3.4リッターV型8気筒のHR09Eエンジンが大活躍を見せ、ドライバー(ロイック・デュバル)とチーム(NAKAJIMA RACING)の両タイトルを獲得しました。また、フォーミュラ・ニッポン最終年の2012年には、伊沢拓也、塚越広大を擁したDOCOMO TEAM DANDELION RACING が、チームタイトルを獲得しています。
2013年からはシリーズ名称が現在のスーパーフォーミュラに変更。その初年度に、山本尚貴(TEAM MUGEN)が最終戦で大逆転を果たし、彼にとって初のシリーズチャンピオンを記録しました。
2014年からは、規定変更に伴い2.0リッター直列4気筒ターボエンジンに変更されました。ここでHondaはHR-414Eを投入します。導入当初はライバルに遅れをとる苦しい場面もみられましたが、開発陣は諦めることなく改善に取り組み、2017年にはHR-417Eの供給を開始。この年は現在F1で活躍するピエール・ガスリー(TEAM MUGEN)が2勝を挙げてランキング2位に入る活躍を見せると、翌2018年には山本尚貴(TEAM MUGEN)がシーズン3勝を挙げ、2度目のドライバーズチャンピオンに輝きました。山本は2019年にDOCOMO TEAM DANDELION RACINGに移籍してチームタイトル獲得に貢献すると、新型エンジンのHR-420Eの供給が始まった2020年には再びドライバーズチャンピオンを獲得する活躍を見せました。
2021年もHonda系各チームが毎戦表彰台争いに絡むなど好調が続き、なかでも安定した走りをみせた野尻智紀(TEAM MUGEN)が最終戦を待たずにチャンピオンを決める快挙を成し遂げました。2022シーズンも引き続き6チーム10台にエンジンを供給。#1 野尻智紀(TEAM MUGEN)2年連続のシリーズチャンピオンを獲得、同時にTEAM MUGENがチーム部門でもシリーズチャンピオンを獲得しました。
Now Challenge参戦カテゴリー解説
2022年からは、4輪部門のレース活動もHRCとして挑戦を続けています。
HRCスピリットを継承し、熱いバトルを繰り広げる各カテゴリーをご紹介します。
国内
SUPER GT
1994年に始まった全日本GT選手権から続く、セミ耐久レースの日本最高峰カテゴリー。2018~2019年シーズンには元F1王者ジェンソン・バトンがエントリーするなど、世界的に実績のあるドライバーも多く参戦して注目を集めています。
1チーム2人のドライバーがマシンをシェアし(長距離レースでは3人の場合あり)、交代を挟んで300~450kmのレース距離(2022年)を走ります。SUPER GTにはマシンの改造範囲によってクラス分けがあり、Honda、トヨタ、日産の3社が「世界最速のツーリングカー」と言われる専用のマシンでしのぎを削るGT500クラスと、世界中のメーカーの多彩な市販車ベースのマシンが参戦するGT300クラスに分かれています。速度差のある両クラスですが、同じコース上を混走してレースを行うことが特徴で、他クラスのマシンまでも利用する駆け引きも見どころのひとつです。
Hondaは全日本GT選手権の時代から参戦しており、2022年はGT500クラスの5チームに「NSX-GT」を、GT300クラスの2チームに「NSX GT3」を供給。近年では2018年に山本尚貴/ジェンソン・バトン組、2020年には山本尚貴/牧野任祐組がGT500クラスのドライバーズタイトルを獲得しています。
SUPER Formula
全日本選手権フォーミュラ・ニッポンを引き継ぐ形で2013年にスタート。日本国内フォーミュラカーレースの最高峰として、全国各地のサーキットで戦いが繰り広げられます。
「日本最速ドライバー」の座を争うシリーズであるとともに、F1ドライバーのピエール・ガスリーや2021年インディカー・シリーズチャンピオンのアレックス・パロウなど、世界的に有名なドライバーも参戦したことから、世界のトップレースへの登竜門的存在としても注目を集めています。
車体はイタリア・ダラーラ社製、タイヤはヨコハマ製のいずれもワンメイクで、エンジンサプライヤーとしてHondaとトヨタの2社が参戦。両社がそれぞれに開発した2リッター直列4気筒直噴ターボエンジンを搭載しますが、高い技術力の中でエンジン出力はほぼ拮抗したものとなっています。マシンがほぼイコールコンディションであることから激しい接近戦が常に繰り広げられ、ドライバーの腕とチームの戦略が大きなカギを握ります。
Honda勢は6チーム10台が参戦。これまでに山本尚貴が3回(2013、2018、2020年)、野尻智紀が1回(2021年)ドライバーズチャンピオンを獲得しています。
海外
INDY CAR
インディカー・シリーズは北米最高峰のモータースポーツシリーズのひとつで、アメリカとカナダで年間17戦(2022年)が行われています。コースの種類は大きく分けて3つあり、F1のようなレーシングコースで行われる“ロード”、市街地コースの“ストリート”のほか、楕円形のコースを高速で周回する“オーバル”でのレースが特徴的です。なかでも、2022年に106回目の開催を迎えた「インディ500」は、F1モナコGP、ル・マン24時間と並び“世界三大自動車レース”に数えられる伝統のレースです。オーバルコースのインディアナポリス・モーター・スピードウェイを、平均350km/h以上の超高速で200周して競われるこのレースは、全米から約30万人もの観衆を集める一大イベントとなっています。
Hondaはエンジン・マニュファクチャラーとして03年から参戦。06~11年には一社供給体制となるなど、シリーズの繁栄を支えてきました。22年は17台に2.2L V6ツインターボエンジンを供給しています。
インディカー・シリーズには世界から有力なドライバーが参戦しますが、そのひとりが元F1ドライバーの佐藤琢磨。2010年から参戦し、2013年の第3戦ロングビーチ大会で日本人ドライバーとして初優勝。さらに、インディ500を2017年に初制覇、2020年には2勝目を挙げるなど、トップドライバーとしてシリーズ中でも一目置かれる存在となっています。
WTCR
FIA ワールド・ツーリングカー・カップ(FIA World Touring Car Cup)は、市販車をベースとしたレース用マシンで争われる国際レースカテゴリーです。前身であるWTCC世界ツーリングカー選手権と、同じくツーリングカーレースのTCR International Seriesが統合し、2018年シーズンから新シリーズが開催されています。
ヨーロッパやアジアのサーキットを舞台に、2022年は年間9戦を予定。Hondaを含む5社のメーカーが参戦し、性能差の出にくいレギュレーションもあって毎戦のように接戦が繰り広げられており、時には接触もいとわないような「ハコ車」ならではの激しいバトルが魅力です。
TCRマシンは、排気量2000cc以下のターボエンジンを搭載した4ドアまたは5ドアのFF車(前輪駆動)の市販車をベースに、TCRテクニカルレギュレーションに則ってチューニングされます。HondaはWTCC時代の2012年から参戦を開始し、日本でも親しまれているスポーツハッチバックのシビックで参戦を続けてきました。2018年のWTCR初年度からは、イタリアのJAS Motorsportとともに開発した「Civic Type R TCR」を投入。2022年は2チーム4台体制で参戦しています。
F1
フォーミュラ・ワン世界選手権は自動車レースの世界最高峰カテゴリーで、一般的には「F1(エフワン)」の通称で広く知られています。
Hondaが日本メーカーとして初めてF1に参戦したのは1964年。以来、休止期間をはさみながら幾度も挑戦し、多くの勝利を手にしてきました。
2014年からF1は、内燃機関(エンジン)にエネルギー回生システムを組み合わせた「パワーユニット(PU)」を搭載するハイブリッドマシンで、レースを行うようになりました。そこにHondaは2015年から、車体開発をするチームに対してPUを供給する「パワーユニットサプライヤー」としてF1に復活しました。
複雑な条件の下でのPU開発は困難の連続で、当初は思うような成績を残すことができませんでしたが、5年目の2019年に初優勝。最終年となった2021年にはRed Bull Racing Hondaのマックス・フェルスタッペンがドライバーズチャンピオンに輝き、大きな成果をもって参戦を終了しました。
2022年からは、レッドブル・グループからのHondaへの要請に基づいて、HRCがレッドブル・パワートレインズに対してパワーユニットに関する技術支援を実施。現行のPU規則が継続される2025年まで、レッドブル・グループのチャレンジをサポートし、HRCの人と技術を一層磨き上げることを目指しています。
フレディ・スペンサー
WGP1983/WGP500/NSR500
1985/WGP500/NSR500
1985/WGP250/RS250RW1983,1985(500cc,250cc)
NS500, NSR500, RS250RW
1961年生まれ、アメリカ・ルイジアナ州出身。幼い頃からダートトラックレースに出場し速さを見せて頭角を現すと、1978年からアメリカ国内でロードレースに本格参戦を開始。この時期にアメリカで盛んになってきたスーパーバイクレースでさまざまな大排気量マシンを乗りこなし、注目を集めるようになる。そして1980年にはホンダと契約し、CB750Fスーパーバイクレーサーなどで活躍。1981年にプライベート体制で世界GPデビューを飾ると、その後にホンダの4スト楕円ピストンエンジンを積んだNR500も走らせた。本格的な世界GPフル参戦は1982年から、マシンはNR500に代わって投入された2ストV3エンジン搭載のNS500。この年は2勝してランキング3位。1983年にはヤマハのケニー・ロバーツと歴史に残る激闘を演じ、勝ち星は同じ6勝だがわずかにポイントでケニーを上回りチャンピオンを獲得。当時の最年少500ccチャンピオンでもあった。1985年には500ccにNSR500、250ccにRS250RWと2クラスにエントリーし、同時に世界チャンピオンを獲得する快挙も達成。1986年以降はケガの影響で思うように走れず、引退、撤回を繰り返したことも。世界GPは1993年にヤマハで走ったのが最後で、以後も散発的にスーパーバイクレースなどを走ったが、1996年を最後にレースから引退している。世界GP通算72戦27勝 タイトル/500cc2回(1983、1985)、250cc1回(1985)
ワイン・ガードナー
WGP1987 /WGP500/NSR5001987
NSR500
1959年生まれ、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身。17歳の時に友人に誘われてロードレースキャリアをスタート。1980年にオーストラリアのローカルレースで豪快な走りを見せているところを、日本からやってきていたモリワキの代表・森脇 護氏に見出され、1981年にモリワキの手がけたTT-F1マシンでイギリスの国内選手権に出場。国際的な注目を集めるようになったのは、この年の鈴鹿8耐にモリワキからエントリーし、驚異的なタイムでポールポジションを獲得してから(決勝はリタイア)。これ以来、次第に大排気量マシンのパワーを活かすライディングが評価されていった。世界GPデビューは1983年、ダッチTTにホンダの市販レーサー・RS500で出走。1985年にはUKホンダからNS500でフル参戦、ランキング4位。1985年にHRCから参戦して鈴鹿8耐で初勝利したこともあって、1986年にはロスマンズ・ホンダ入り、NSR500で参戦しランキング2位、1987年にはランディ・マモラとの争いを制して初の世界チャンピオンを獲得。オーストラリア人初の世界GPチャンピオンでもあった。以後もトップライダーとしてシュワンツ、レイニーらと激しい争いを繰り広げたが、1989年に激しいクラッシュの結果右足を骨折。以降はその影響で本来の速さを取り戻せず、1992年限りで世界GPを引退。しかし以後も4輪レースに転身して活躍した。世界GP通算100戦18勝 タイトル/500cc1回(1987) 鈴鹿8耐通算4勝(1985、1986、1991、1992)
エディ・ローソン
WGP1989 /WGP500/NSR5001989
NSR500
1958年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。7歳にしてミニバイクレースに参戦し、12歳からはダートトラックレースへ転向、1980年にはロードレースへ本格参戦。当初はカワサキと契約、スーパーバイクや250ccクラスを主戦場として走っていた。1981年にはAMAスーパーバイクチャンピオンとなり、スポット参戦だが世界GP250ccクラスにもデビューするなど、国際的に注目されるようになる。そして満を持して1983年、ヤマハから世界GP500ccクラスへデビュー。1984年には開幕戦の南アフリカGPでGP初勝利を記録すると、スペンサーをはじめとするホンダ勢を相手に4勝して参戦2年で世界チャンピオンに。以後もヤマハのエースとしてステディ・エディと呼ばれるほど安定した速さを見せ、1986年と1988年にもタイトルを獲得。そんな絶頂にあった1989年、最大のライバルだったはずのホンダへ電撃移籍。ヤマハのエースとなったレイニーとの激戦を制し、4度目の500ccチャンピオンをホンダに乗って獲得して見せた。1990年にはヤマハへ復帰、1991年にカジバに移籍、1992年で世界GPを引退。以後は4輪レースに参戦、CARTシリーズなどを走っていた。世界GP通算31勝、タイトルはGP500・4回(1984、1986、1988、1989)。鈴鹿8耐通算1勝(1990)。
アレックス・クリビーレ
WGP1999 /WGP500/NSR5001999
NSR500
1970年生まれ、スペイン・カタルニア州出身。世界GPデビューは1987年の80ccクラスで、1988年にはフル参戦して未勝利ながらランキング2位となって注目を集める。1988年からは125ccクラスへステップアップ、第2戦・オーストラリアGPでの初勝利を皮切りに5勝を挙げ、19歳にして初の世界タイトルを獲得。当時の世界GP史上最年少チャンピオンだった。その勢いを買って1990年は250ccクラスへ戦いの場を移したが、80や125で見せてきた速さを発揮できず、最高位5位のランキング11位、1991年もランキング13位。1992年からはカンプサ・ホンダからNSR500で最高峰の500ccクラスへと挑戦。ダッチTTで500cc初勝利を挙げてランキング8位となり速さを取り戻し、小排気量スペシャリストではないことを証明。1994年にはHRCに加入、チームメート、ミック・ドゥーハンの初タイトルを援護。1995年からはレプソルカラーとなってドゥーハンの全盛時代を迎える中、勝ち星は挙げて速さも見せ、ランキング上位とはなるものの常にドゥーハンの影という存在だった。しかし1999年、ドゥーハンの引退と入れ替わってホンダのエースとなると一気にブレイク、シーズン6勝を記録してついに500ccクラスの頂点に。これはスペイン人初の500ccチャンピオンもであった。その後、2001年シーズンで現役を引退。世界GP通算193戦20勝 タイトル/500cc1回(1999)、125cc1回(1989)
ミック・ドゥーハン
WGP1994-1998 /WGP500/NSR5001994-1998
NSR500
1965年生まれ、オーストラリア・クイーンズランド州出身。少年時代からオートバイには乗っていたが、本格的なレースデビューは遅く19歳になってからだった。オーストラリアのローカルレースで活躍し、1987年にはトップカテゴリーのスーパーバイクレースに進出してトップライダーとなり、1988年にはスーパーバイク世界選手権でも勝利を挙げている。その速さが高く評価されて、ついに1989年にはロスマンズ・ホンダに抜てきされ、世界GP500ccクラスにNSR500でデビュー。チームメートは同じオーストラリア人のワイン・ガードナーだった。1990年に初勝利を挙げランキング3位、1991年にはウエイン・レイニーとタイトル争いを繰り広げるもランキング2位。1992年には開幕4連勝を含む5勝を挙げる圧倒的な強さを見せながら、ダッチTTでの転倒で右足に重傷を負い4戦を欠場し、またもやランキング2位。しかし1994年、14戦9勝という文句なしの成績でついに初のチャンピオンを獲得すると、1998年まで敵なしの速さを発揮して500ccクラス5連覇を達成。そして6連覇を狙う1999年の第3戦・スペインGPで再び大転倒を喫してまたも重傷を負い以後のレースを欠場。復帰を目指したが再びレースを走ることはなかった。世界GP通算117戦54勝 タイトル/500cc5回(1994-1998) 鈴鹿8耐通算1勝(1991)
バレンティーノ・ロッシ
WGP2001-2002/WGP500/NSR500
2003/MotoGP/RC211V2001-2002,2003(MotoGP)
NSR500, RC211V
1979年生まれ、イタリア・マルケ州出身。1970年代末に活躍したGPライダー、グラツィアーノ・ロッシの息子として誕生。幼い頃はレーシングカートに熱中したが、途中ポケバイに転向。1993年からロードレースに参戦すると、1995年にはイタリア国内選手権の125ccクラスのチャンピオンとなり、ヨーロッパ選手権でもランキング3位という好成績を残し、翌1996年から世界GP125ccにステップアップ。アプリリアを駆って初勝利も記録してランキング9位になると、1997年には当時125ccで活躍していた上田昇らのベテランを速さで圧倒し参戦2年で11勝を記録、早くも世界チャンピオンに。1998年からは250ccクラスを走り、翌1999年には9勝してチャンピオン。GP参戦5年目の2000年には、世界タイトル2回を手土産にホンダ入りし500ccクラスへ昇格すると、やはり参戦2年目の2001年に11勝、最後の500ccチャンピオンとなる。2002年MotoGP開始後もその速さは止まらず、2004年にヤマハに移籍しながら2005年まで、世界GP最高峰クラス5連覇を達成。2007年・2008年にもMotoGPを連覇。以後も文句なしの速さに華やかさも備える大スターとして注目の的となり、文字通り長きにわたり世界GPを牽引。ドゥカティ移籍、ヤマハ復帰、F1転向の噂などでもパドックを騒がせた。しかし2017年を最後に勝利から遠のき、2021年シーズン、ついに現役を退いた。現在は自らのチームの監督を務めながら、4輪レースやラリーにも参戦。世界GP通算464戦115勝 タイトル/500cc1回(2001)、MotoGP6回(2002~2005、2008、2009)、250cc1回(1999)、125cc1回(1997) 鈴鹿8耐通算1勝(2001)
ニッキー・ヘイデン
WGP2006/MotoGP/RC211V2006
RC211V
1981年生まれ、アメリカ・ケンタッキー州出身。幼くしてバイクに乗り始め、ダートトラックレースで活躍した後、ロードレースにも出場するようになる。スーパーバイクレースなどを中心に走り、1999年にはCBR600FでAMAのスーパースポーツ・チャンピオン、2002年にはVTR1000SPWでAMAの最高峰であるスーパーバイククラスの最年少チャンピオンとなる。こうした大排気量4ストマシンでの速さがホンダから高く評価されて、2003年シーズンは4ストマシンを採用するMotoGPクラスにいきなり抜てきされ、ワークスであるレプソル・ホンダからRC211Vで世界GPデビューすることに。このシーズンは3位表彰台2回、ランキング5位でルーキーオブザイヤーにも選出。2004年はランキング8位に終わったが、2005年はアメリカGPでポール・トゥ・ウイン、待望のMotoGP初勝利を記録し、ランキングも3位に。そして2006年、2勝を含む表彰台10回という安定した速さを見せ、最大のライバルであったロッシを抑えて、ついにMotoGPチャンピオンを獲得してみせる。しかし2007年は最高位3位、2008年は最高位2位でいずれも未勝利。2009年にはドゥカティへと移籍することになり、2013年まで走ったが結局トップを取れなかった。2014年はホンダへ復帰(マシンはRC213Vではなく市販のRCV1000Rだった)するも、2015年シーズン終了とともにシートを喪失。2016年に代役で2戦走ったのを最後にMotoGPを引退すると、スーパーバイク世界選手権に活躍の場を移したが、2017年に不慮の事故により生涯を終えた。世界GP通算218戦3勝 タイトル/MotoGP1回(2006)
ケーシー・ストーナー
WGP2011/MotoGP/RC212V2011
RC212V
1985年生まれ、オーストラリア・クイーンズランド州出身。幼少期からダートトラックレースを走り、1999年にはレース活動のために家族と共にヨーロッパに拠点を移す。イギリス、スペインのロードレースを走った後、2001年に125ccクラスで世界GPデビュー、2002年から250ccクラスで本格参戦を開始。2003年には125ccクラスで世界GP初勝利を記録、2005年に再び250ccクラスに戻ると、ダニ・ペドロサと激しいタイトル争いを展開。5勝を記録しながらランキング2位。2006年にはMotoGPクラスへステップアップし、LCR・ホンダでRC211Vを走らせるも未勝利でランキング8位。翌2007年にはドゥカティに移籍、その初戦であるカタールGPでMotoGP初勝利を挙げると、ロッシやカピロッシなどのトップライダーを相手にシーズン10勝という圧倒的な強さを見せて初チャンピオンを奪取。2008年はロッシにタイトルこそ持って行かれランキングは2位となったが、互角の戦いで6勝。2009年、2010年も速さを見せたが、体調不良や負傷の影響で連続ランキング4位。しかし2011年にレプソル・ホンダに移籍すると、RC212Vで安定した速さを発揮。全18戦中10勝、1戦だけリタイアした以外は3位以上という圧倒的な成績で2度目のMotoGP王座を獲得。続く2012年も開幕から3戦2勝という盤石の速さを見せていたが、突然2012年限りでの引退を発表。最終戦までに5勝まで勝ち星を伸ばしたが、結局負傷欠場の影響もあってランキング3位だった。27歳での現役引退後、4輪レースや鈴鹿8耐への参戦、ドゥカティとのテストライダー契約などで話題となり、MotoGP復帰も取りざたされたが実現はしなかった。世界GP通算176戦45勝 タイトル/MotoGP2回(2007、2011)
マルク・マルケス
WGP2013-2014, 2016-2019/MotoGP/RC213V2013-2014、2016-2019
RC213V
1993年生まれ、スペイン・サルベーラ州出身。オートバイに乗り始めたのは5歳だったが、幼い頃はエンデューロで速さを見せていた。2002年からロードレースに転向し、スペイン国内選手権を経て2008年、KTMで世界GP125ccクラスへ挑戦を開始。2010年にはデルビに移り、イタリアGPでの初優勝から覚醒して5連勝、ポル・エスパルガロらと激しく争いって最終的に10勝を挙げて世界チャンピオンに。2011年にはMoto2で7勝するが、クラッシュの影響で終盤2戦を欠場、ステファン・ブラドルにタイトルをさらわれランキング2位。しかし2012年には危なげなく9勝して、大差でMoto2チャンピオンの座に着く。この強烈な速さが認められ、2013年にレプソル・ホンダに抜てきされると、ホルヘ・ロレンソ、ダニ・ペドロサ、ヴァレンティーノ・ロッシらの強豪たちを相手にRC213Vでいきなり6勝、見事にチャンピオンになってみせた。続く2104年は開幕から10連勝、最終的に13勝してもちろん連覇。2013年から2019年までの7シーズンで勝って勝って勝ちまくり、ランキング3位となった2015年を除く6シーズンでMotoGPのタイトルを独占するという黄金時代を築いた。しかし2020年、第2戦スペインGPで右腕に重傷を負い、このシーズンを棒に振ってしまう。治療を終えてレースに戻った2021年には3勝。2022年はシーズン途中、右腕の再手術のため長期欠場。しかし終盤に復帰を果たしている。世界GP通算232戦85勝 タイトル/MotoGP:6回(2013、2014、2016~2019)、Moto2:1回(2012)、125cc:1回(2010)※2022年シーズン終了時
アレックス・マルケス
WGP2014/Moto3/NSF250RW2014
1996年生まれ、スペイン・リェイダ出身。言わずと知れたマルク・マルケスの弟で、兄の後を追うかのように8歳の頃にポケバイでレースを走りだし、カタルニア選手権を経て、2010年にはレプソルMoto3ジュニア世界選手権にまでステップアップ。2011年には同選手権のランキング2位となり、2012年にはスペイン選手権Moto3クラスチャンピオンに。この年に並行してスッター・ホンダを駆って世界GPのMoto3クラスにもデビュー、初年度こそランキング20位だったが、マシンをKTMに変えて本格参戦を開始した2013年にはトップ集団に加わり、日本GPで初勝利してランキング4位。2014年にはホンダに乗り換え、合計3勝を挙げてチャンピオンを獲得。これは兄のマルクが2010年にチャンピオンを獲得したのと合わせ、Moto3クラスでは初の兄弟制覇で、ホンダにとっても初のMoto3タイトルだった。2015年からはMoto2クラスにステップアップ、当初は苦戦したが5シーズン目の2019年には5勝してMoto2タイトルを獲得。2020年からは、ついに兄と同じ最高峰のMotoGPへ、兄マルク・マルケスともにレプソル・ホンダで参戦。2020年、アレックスはフランスGPでMotoGPでの自身初となる表彰台を獲得(2位)し、続けてアラゴンGPで2戦連続表彰台獲得。2021年、2022年はLCRホンダより参戦。世界GP通算12勝、タイトルはMoto3・1回(2014)、Moto2・1回(2019)
アントン・マンク
WGP1987/WGP250/NSR2501987
NSR250
1949年生まれ、ドイツ・バイエルン州出身。11歳で初めてオートバイに乗ったというが、本格的にロードレースを走るようになったのはレースメカニックとなっていた20歳を過ぎてから。しかし1975年にはドイツ国内選手権の350ccクラスでチャンピオンとなり、オーストリアGPで世界GPにデビュー。翌1976年にはニュルブルクリンク・ ノルドシュライフェを舞台に開催されたドイツGPにおいて、125ccクラスで世界GP初勝利を記録。1978年にはカワサキ入りしてタンデムツインエンジンを積むKRで250ccと350ccにダブルエントリー、250ccクラスで1勝。1979年には350ccでも1勝。その才能が花開いたのは1980年、250ccクラスで10戦4勝し初の世界タイトルを獲得、しかも350ccクラスも2勝でランキング2位となる。1981年には250ccクラスで10勝、350ccクラスで5勝して2クラス同時に世界チャンピオンとなる快挙を達成。1982年の350ccクラスでは1勝のみながら連続チャンピオンとなり、250ccクラスでも5勝でランキング2位という、まさに無敵の速さを見せた。1982年でカワサキが世界GPを撤退した後も、1985年からはホンダを駆って250ccクラスで常にトップを争い続ける。1987年にはNSR250で8勝、38歳にして再びチャンピオンに! 翌1988年も開幕戦の日本GPで勝ち、速さが衰えていないところを見せたが、ユーゴスラビアGPでのクラッシュで重傷を負い、惜しくも引退を余儀なくされた。世界GP通算153戦42勝 タイトル/250cc3回(1980、1981、1987)、350cc2回(1981、1982)
シト・ポンス
WGP1988-1989/WGP250/NSR2501988-1989
NSR250
1959年生まれ、スペイン・カタルニア州出身。世界GPへのデビューは1981年ベルギーGPの250ccクラス。1982年からはコバスのマシンを駆って走り、初めてフル参戦が実現した1984年にはスペインGPで初勝利を記録し、最終的にランキング4位。1985年の500ccクラスにHBスズキから参戦するもフランスGPでの最高位は7位、1986年からはホンダ陣営に加わって250ccクラスに戻り、NSR250を駆って2勝を挙げ、ヤマハのカルロス・ラバードとタイトルを争うがランキング2位。しかし250ccクラスのトップコンテンダーの地位を確立し、1987年には1勝・ランキング3位。1988年にはファン・ガリガ、ドミニク・サロンら同じNSRで参戦するライダーたちとのし烈なチャンピオン争いを制し、4勝を挙げて初めてのタイトルを獲得。NSR勢の争いが続いた翌1989年には、7勝を記録して2位のラインハルト・ロスに70ポイント以上の大差をつけての連続チャンピオンという偉業を成し遂げた。1990年にはNSR500で再び500ccクラスに挑戦したがトップ争いには加われず、1991年限りで引退。その後はチーム監督として世界GPに引き続き挑戦。
ルカ・カダローラ
WGP1991-1992/WGP250/NSR2501991-1992
NSR250
1963年生まれ、イタリア・エミリア=ロマーニャ州モデナ出身。1984年にMBAを駆って125ccクラスで世界GPに初参戦し、3年目の1986年にはジレラに移籍し、ドイツGPでの世界GP初勝利を含む4勝でファウスト・グレシーニを振り切って初タイトルを獲得。1987年からはマルボロ・ヤマハ入りして250ccクラスにスイッチ、1988年は2勝を挙げランキング6位、1989年も2勝でランキング5位、1990年は3勝でランキング3位。1991年にロスマンズ・ホンダに移ってNSR250で走るようになるとその爆発的な速さが開花して、15戦して8勝、12表彰台、全戦5位以上という文句の付けようのない成績でついにチャンピオンの座につく。1992年も7勝して連続チャンピオン。翌1993年からはマルボロ・ヤマハに戻って最高峰の500ccクラスに参戦。1995年までヤマハ、1996年はホンダで走ったが、2勝ずつを挙げる安定した速さを見せ、ランキングも5位・2位・3位・3位。しかしこの頃全盛を迎えたホンダのドゥーハンを抑えることはできなかった。1997年以降は成績が下降、1998年にはフル参戦シートを喪失。1999年に返り咲いたがMuZで苦しい戦いを強いられる。2000年にチーム・ロバーツで2戦したのを最後に引退した。世界GP通算195戦34勝 タイトル/250cc2回(1991、1992)、125cc1回(1986年)
マックス・ビアッジ
WGP1997/WGP250/NSR2501997
NSR250
1971年生まれ、イタリア・ラツィオ州ローマ出身。1989年からレースをはじめると持ち前の速さを発揮してとんとん拍子にステップアップ、1991年にヨーロッパ選手権の250ccクラスチャンピオンになり、世界GP250ccクラスにもスポット参戦。1992年はアプリリアからフル参戦し、最終戦の南アフリカGPで初勝利も記録、ルーキーながらランキング5位。1993年も1勝でランキング4位。1994年、ホンダの岡田忠之、ロリス・カピロッシらを抑え、5勝して世界チャンピオンになると、1995年、1996年、そしてホンダに移籍した1997年と、250ccクラス4連覇を達成。原田哲也、ラルフ・ウォルドマン、オリビエ・ジャック、宇川徹らの強力なライバルを相手に4年で27勝、まさに圧巻の強さを見せつけた。1998年からは500ccクラスへ戦いの場を移し、NSR500で2勝、黄金時代のドゥーハンに続くランキング2位。以後も1999年~2001年はヤマハ、MotoGPとなった2002年以降はホンダで走り続け、勝ち星も挙げてランキングも上位、何度もタイトル争いに加わったが、ついに最高峰クラスでのタイトルには恵まれず。未勝利に終わった2005年シーズンで世界GPから引退した。しかしレースへの情熱は衰えず、スーパーバイク世界選手権に転向。2010年、2012年にはアプリリアでタイトルを獲得してみせた。現在は現役を退いたが、Moto3チームの監督としてレースに関わり続けている。世界GP通算214戦42勝 タイトル/250cc4回(1994~1997)
加藤大治郎
WGP2001/WGP250/NSR2502001
NSR250
1976年生まれ、埼玉県浦和市出身。3歳からポケバイに乗り、5歳で初レースを経験、ミニバイクレースを経て16歳でロードレースを始める。1993年から九州選手権をはじめとする地方選手権で大活躍。その結果、1994年に特別昇格で国際A級となって全日本ロードレースの250ccクラスに参戦、初勝利も記録。1995年にはNSR250を与えられて2勝、ランキング5位となり、 日本GPへのスポット参戦で世界GPにもデビューして3位入賞。1997年にはHRC入り、再びスポット参戦した日本GPでは優勝し、全日本でも250ccのタイトルを獲得し一躍トップライダーに。1998年、1999年も全日本で走った後、2000年からは世界GPの250ccクラスにホンダ・グレシーニから待望のフル参戦。ホンダの宇川徹、ヤマハの中野真矢、オリビエ・ジャックというライバルたちと激闘を展開、4勝するもランキング3位。しかし、雪辱を期して臨んだ2001年には開幕4連勝を含む11勝を挙げ、2位の原田哲也、3位のマルコ・メランドリに大差を付けて世界タイトルを獲得した。2002年は最高峰のMotoGPへステップアップ。当初は型落ちのNSR500で走ったが、シーズン途中からはRC211Vを与えられ、最高位2位のランキング7位。2003年シーズンの飛躍が期待されていたが、開幕戦・日本GP決勝でのクラッシュで意識不明の重傷を負い、治療の甲斐なく夭折。世界GP通算53戦17勝 タイトル/250cc1回(2001) 鈴鹿8耐通算2勝(2000、2002)
ダニ・ペドロサ
WGP2004-2005/WGP250/RS250RW2004-2005
RS250RW
1985年生まれ、スペイン・カタルニア州出身。4歳からミニバイクに触れてレースを始めたペドロサは、テレフォニカがバックアップするGPライダー養成プロジェクトに選ばれて2000年のスペインの国内ロードレース選手権にデビューし、ランキング4位に食い込んで見せる。翌2001年、15歳にして世界GPの125ccクラスにホンダRS125で参戦を開始、初年度から表彰台に立つと、2002年には初勝利を含む3勝でランキング3位、2003年は5勝して初タイトルを獲得。2004年には250ccクラスに昇格するが、250デビューの開幕戦・南アフリカGPでRS250RWを駆っていきなり勝利し、最終的に7勝、表彰台13回という好成績でセバスチャン・ボルト、ランディ・ド・プニエらを蹴散らしてタイトル獲得。さらに2005年も8勝でケーシー・ストーナー、アンドレア・ドヴィツィオーゾを従えて連覇、あっという間に世界的なライダーの座に駆け上った。2006年からもホンダでMotoGPを走ったが、小柄な体格をものともせずに大排気量マシンを振り回し、2006年から2017年まで12シーズン連続して勝ち星を挙げる速さを維持しながら、ランキング2位3回、3位3回、フル参戦最終年の2018年を除けば常にランキング6位以内という絶大な安定感も備えていた。しかし、ロッシ、マルケスといったライダーを打ち負かすことができず、ついにMotoGPではチャンピオンになれなかった。世界GP通算296戦54勝 タイトル/250cc2回(2004、2005)、125cc1回(2003)
青山博一
WGP2009/WGP250/RS250RW2009
RS250RW
1981年生まれ、千葉県市原市出身。5歳の時にポケバイでレースを始め、14歳からミニバイクレースへ。17歳でロードレースにデビュー。1999年からは全日本ロードレースの125ccクラスへ参戦し、2000年に250ccクラスへステップアップ、2003年全日本タイトルを獲得。世界GPデビューは2000年パシフィックGPだが、フル参戦は2004年、ホンダ・レーシングスカラシップ第1期生として、テレフォニカ・モビスター・ホンダから。初年度は最高位3位のランキング6位、2005年は日本GPで初勝利しランキング4位。2006年にKTMへ移籍、2勝でランキング4位、2007年も2勝したが、ダニ・ペドロサ、ケーシー・ストーナー、アンドレア・ドヴィツィオーゾといった後に名を成すライダーがそろう当時の250ccクラスでチャンピオンに手が届かない。そんな中KTMが250ccクラスを撤退したため、2009年はホンダに復帰。恵まれた体制ではなかったが、4勝に加え全戦一桁順位で完走という安定感も見せ、エクトル・バルベラ、マルコ・シモンチェリらを抑えて2009年で終りを告げる250ccクラス、最後のチャンピオンの座をつかみとる。2010年からはMotoGP、2012年はスーパーバイク世界選手権を走り、2013年から再びMotoGP。2015年シーズンに代役で4戦走ったのを最後に現役を引退。2018年からはMoto2、Moto3で活動するホンダ・チーム・アジアの監督として後進の育成に力を注ぐ。世界GP通算175戦9勝 タイトル/250cc1回(2009)
ジョン・コシンスキー
WSBK1997/WSBK/RVF[RC45]1997
RVF/RC45
1968年生まれ、アメリカ・アーカンソー州出身。幼少期からダートトラックレースで豊富な経験を積んだ後、1988年からロードレースへの本格参戦を開始。ケニー・ロバーツの下、AMA250ccクラスを中心に、全日本ロードレース、ロードレース世界GPにもスポット参戦。1988年に世界GP250ccにヤマハから参戦、1990年にはフル参戦すると7勝を挙げ、圧倒的な速さで世界タイトルを獲得。1989年には500ccクラスにスポット参戦、1991年からはフル参戦すると、同年には初勝利も記録してランキング4位。翌1992年にも1勝してランキング3位となったが、1993年にはスズキ移籍で250ccクラスへ。1994年にはカジバ移籍で500ccに戻り再びランキング3位となるが、カジバの撤退でシートを失う。1996年からスーパーバイク世界選手権に転じると、1997年にはカストロール・ホンダのRC45で9勝しチャンピオンに。1998年、世界GP500ccクラスにホンダで復帰したが、全盛期の速さはすでになく、1999年で現役から退いた。世界GP通算99戦13勝 タイトル/250cc1回(1990)
コーリン・エドワーズ
WSBK2000 ,2002/WSBK/VTR1000SPW2000 ,2002
VTR1000SPW
1974年生まれ、アメリカ・テキサス州出身。幼い頃はモトクロスで走っていたが、1990年にロードレースを始める。1992年にAMA250ccクラスでチャンピオンとなり、AMAの最高峰・スーパーバイククラスで1993年・1994年と連続してランキング6位。1995年にヤマハに抜てきされスーパーバイク世界選手権へ。1998年にホンダへ移籍し、1998年はRC45をライディングし初勝利を含む3勝でランキング5位、1999年は5勝してランキング2位。マシンがVTR1000SPWとなった2000年、ついにヤマハの芳賀紀行を下してスーパーバイク世界選手権で初タイトルを獲得。2001年はドゥカティのトロイ・ベイリスにタイトルを奪われたが、2002年にはベイリスにリベンジしてタイトルを奪回。2003年には、アプリリアからMotoGP参戦を果たしたが苦戦。2004年にはホンダへ戻り、2005年~2011年はヤマハ、最終的に2014年まで長くMotoGPで走ったが、ついに1度も勝利することなく引退。世界GP通算196戦0勝 鈴鹿8耐通算3勝(1996、2001、2002)
ジョイ・ダンロップ
TT-F1世界選手権1986/TT-F1/RVF750
1985/TT-F1/RVF750
1984/TT-F1/RS750
1983/TT-F1/RS850
1982/TT-F1/RS10001982-1986
RS1000?,RS850R,RS750R,RVF750
1952年生まれ、北アイルランド・バリーマネー出身。1969年、17歳でロードレースを始める。1976年にマン島TTを初めて走って以来、毎年常に複数のクラスに参戦して102レースを走り、1977年の初勝利から2000年までの間に、3度の〝ハットトリック(1開催で3勝)〟を含む通算26勝、これは2022年現在でもTT通算最多勝記録である。マン島TT以外でも公道コースで行われるレースで無類の強さを発揮し、アルスターグランプリ、ノースウエスト200など主要な公道レースで数多の勝利を挙げた。さらにTT-F1世界選手権にもホンダのマシンで1980年からエントリーし、1982年~1986年にかけて5年連続でチャンピオンを獲得。また1984年・1985年は鈴鹿8耐にも参戦していた。2000年7月、エストニアの公道コースで開催されたレースの125ccクラスでクラッシュ、48歳で命を落とす。
エディ・ルジャーン
Trial1982-1986/Trial/RTL3601982-1984
RTL360
1961年生まれ、ベルギー・ヴェルヴィエ出身。1970年代にベルギー国内のトライアル選手権で活躍、4度のチャンピオンとなった兄を追うようにトライアルの世界に飛び込む。1979年にホンダと契約、1980年には初のベルギーチャンピオンになり、トライアル世界選手権のベルギー戦で世界選手権の初勝利も記録。1981年はベルギー選手権を連覇、世界選手権でも3勝してランキグ4位。1982年には世界選手権で9勝して初の世界タイトルを獲得、これは世界選手権で初めて4ストマシンでのタイトル獲得という快挙だった。さらに1984年まで続く史上2度目の3連覇も達成。1987年までホンダで走り、引退は1990年のことだった。
マルク・コロメ
Trial1996/Trial/Montesa COTA315R1996
モンテッサCOTA315R
1974年生まれ、スペイン・カタルニア州出身。幼少期から自転車トライアルに親しみ、14歳になってからオートバイでのトライアルに転向してスペイン・ユースチャンピオンとなり、1989年にはスペイン・ジュニアチャンピオン。1991年には16歳にしてスペイン国内選手権3位。トライアル世界選手権でも活躍するようになり、モンテッサ・ホンダを駆って1996年に世界チャンピオンとなった。他にもインドアトライアル世界選手権で1994年~1996年に3連覇。2004年に現役を退いたが、2017年にはこの年始まった電動マシンによるトライアルE選手権に復帰し、タイトルを獲得してみせた。
ドギー・ランプキン
Trial2000-2003/Trial/Montesa COTA315R2000-2003
モンテッサCOTA315R
1976年生まれ、イギリス・ウェスト・ヨークシャー州出身。父は1975年に世界トライアル選手権の初代チャンピオンとなったマーチン・ランプキン。1991年に15歳で全英トライアル選手権のスクールボーイBクラスチャンピオンとなったのを皮切りに、1993年にはヨーロッパ選手権、1994年には全英トライアル選手権のタイトルを獲得、世界選手権でもランキング6位。1994年・1996年にはI.S.D.E.も制覇、1997年には世界選手権タイトル初制覇をはじめ、インドア世界選手権、全英選手権、トライアル・デ・ナシオンと主要タイトルを独占。結局2006年の引退までに、世界選手権7連覇、インドア世界選手権5連覇、全英選手権6回、スペイン選手権2回、I.S.D.E.12勝、トライアル・デ・ナシオン4勝という圧倒的な記録をトライアル界に残した。
藤波貴久
Trial2004/Trial/Montesa COTA315R2004
モンテッサCOTA315R
1980年生まれ、三重県四日市市出身。トライアル競技をしていた父親の影響で自転車トライアルを始める。1991年からオートバイでのトライアルに移り、1992年には中部選手権でチャンピオンを獲得、1995年には全日本トライアル選手権史上最年少でチャンピオンとなり、15歳にして日本トライアル界の頂点に立つ。1996年に世界選手権参戦を開始・1997年ドイツ大会で初勝利。1999年に全日本では全勝チャンピオンになったが、世界選手権ではモンテッサ・ホンダのチームメートであり、当時全盛期を迎えていたドギー・ランプキンの壁は厚く、1999年から2003年まで連続してランプキンに次ぐランキング2位。しかし2004年、ドギー・ランプキンと真っ向勝負で8勝をマークし、待望の世界チャンピオンの座に就いた。その後もモンテッサ・ホンダで世界選手権を長く戦ったが2021年で現役を退き、以後はモンテッサ・ホンダのチーム監督を務めている。
トニー・ボウ
Trial2007-2022/Trial/Montesa COTA4RT2007-2022
モンテッサCOTA4RT
1986年生まれ、スペイン・ピエラ出身。1999年、カタルニア・カデットトライアル選手権のタイトルを獲得、2001年のスペインジュニアチャンピオンを経て、2003年にはトライアル世界選手権に参戦を始める。世界選手権での初勝利を挙げたのは2006年、これをきっかけに一気に才能を発揮し、モンテッサ・ホンダに移籍した2007年はチャンピオンを獲得する。しかも同時にインドア世界選手権(現・Xトライアル世界選手権)のチャンピオンも獲得するという快挙だった。さらに驚くべきは、このトライアル界の頂点である2つの世界選手権を同時に制覇するダブルタイトル獲得を、2022年までの16年続けて今なお継続中ということ。16連覇×2、世界選手権を都合32連覇という前人未到の大記録を打ち立て、史上最強のトライアルライダーとして君臨している。
アンドレ・マラーベ
MXGP1980/FIM MX500/RC500M
1981/FIM MX500/RC500M
1984/FIM MX500/RC500M1984
RC500M
1956年生まれ、ベルギー出身。オートバイ販売店に生まれ、幼い頃からレースに親しみ、1973年・1974年にはヨーロッパモトクロス選手権125ccクラスを連覇。1977年にはモトクロス世界選手権の250ccクラスでKTMを駆ってランキング3位、1978年から最高峰の500ccクラスへ。1979年にホンダへ移籍しランキング3位。翌1980年には初の世界タイトルを手にすると1981年もその座を守り、1984年には3度目の500ccタイトルも獲得。グランプリにおけるホンダの黄金時代を築いた。1986年にモトクロスから引退し、その後は4輪レースやラリーレイドに参戦。
デビッド・ソープ
MXGP1985/FIM MX500/RC500M
1986/FIM MX500/RC500M
1989/FIM MX500/CR500M1985-1986,1989
RC500M
1962年生まれ、イギリス出身。少年時代からモトクロスで活躍すると同時に、サッカー選手としても一時プロ契約をするほどの才能を見せたが、最終的にモトクロスを選ぶ。1983年にホンダ入りしてモトクロス世界選手権500ccクラスで走るようになり、1985年・1986年には2年連続で世界タイトルを取ってみせる。その後の2シーズンは負傷によって本領を発揮できなかったが、1989年には3度目の500ccタイトルを手にする。1993年に引退。
エリック・ゲボス
MXGP1987/FIM MX250/RC250M
1988/FIM MX500/RC500M
1990/FIM MX500/RC500M1987(250), 1988(500), 1990(500)
RC500, RC250
1962年生まれ、ベルギー出身。1968年~1972年にモトクロス世界選手権で活躍した、シルバン・ゲボスは長兄。その兄が率いるスズキから世界選手権125ccクラスにデビュー後、1982年に125ccクラスで初タイトルを獲得すると、1983年には連覇を達成。スズキの撤退により1984年からホンダに移って1986年まで500ccクラスに参戦するが、タイトル獲得はならず。1987年には250ccにスイッチすると5勝してタイトルを獲得。1988年に500ccへ復帰すると待望のチャンピオンとなり、史上初めてモトクロス世界選手権3クラス制覇を達成したライダーとなる。1990年には再び500ccタイトルを獲得した。
ジョルジュ・ジョベ
MXGP1987/FIM MX500/CR500R
1991/FIM MX500/CR500R
1992/FIM MX500/CR500R1987, 1991, 1992
CR500R
1961年生まれ、ベルギー出身。サッカー選手としても期待されながら、16歳でモトクロスの道へ進む。ベルギー国内選手権を経て1980年、1983年にはスズキでモトクロス世界選手権250ccクラスのタイトルを獲得。そして1985年にはホンダに移籍、プライベート態勢で1987年に500ccクラスチャンピオンになると、1991年・1992年には500ccクラスを連覇。世界選手権3クラス制覇を目指し、並行して125ccクラスにも参戦していたが、これはついに果たせずに終わり1992年に引退。その後は後進の育成に尽力したが、病に倒れ2012年に51歳で亡くなった。
ジャン・ミッシェル・バイル
MXGP, AMA-SX,AMA-MX1988/FIM MX125/CR125R
1989/FIM MX250/CR250R
1991/AMA SX250/CR250R
1991/AMA MX250/CR250R
1991/AMA MX500/CR500R1988(FIM MX125), 1989(FIM MX250), 1991(AMA SX250, AMA MX250, AMA MX500) ,
CR125R, CR250R, CR500R
1969年生まれ、フランス出身。1986年からモトクロス世界選手権やフランス国内選手権の125ccクラスにエントリー、1987年にホンダに移籍して全仏タイトルを獲得し、翌1988年には世界選手権でもチャンピオンに。1989年に世界選手権250ccクラスを制すと、1991年にはアメリカへ渡り、AMAスーパークロス250cc、AMAモトクロス250cc/500ccクラスの3冠王という快挙を成し遂げる。1992年からはロードレースに転向して世界GPに挑戦。1995年まではアプリリアで250ccクラスを走り、1996年はヤマハで500ccクラスへ。モデナス移籍などを経て、2002年まで500ccで走った。ポール獲得など速さは見せたが、ロードではタイトルにも勝利にも恵まれなかった。
ティム・ガイザー
MXGP2015/FIM MX2/CRF250R
2016/FIM MXGP/CRF450RW
2019/FIM MXGP/CRF450RW
2020/FIM MXGP/CRF450RW
2022/FIM MXGP/CRF450RW 2015(MX2) , 2016(MXGP) , 2019-2020(MXGP),2022(MXGP)
CRF250R, CRF450RW
1996年生まれ、スロベニア出身。2015年にはホンダからモトクロス世界選手権MX2クラスに参戦、初めての世界タイトルを獲得。2016年には最高峰のMX1クラスに昇格し、激戦区でいきなりチャンピオンになった。その後も2019年・2020年シーズンを連覇し、2022年シーズンには5度目の世界タイトルを掌中に収めた。ゼッケン243は、今は亡き兄の誕生日、3月24日にちなんだ数字。大事な生涯ゼッケンなので、チャンピオンになっても243をキープしている。
トランパス・パーカー
MXGP1991/FIM MX250/CR250R1991
CR250R
1967年生まれ、アメリカ・ルイジアナ州出身。1985年、1986年にAMAモトクロスへ参戦した後イタリアに渡り、1989年のモトクロス世界選手権125ccクラスをKTMで制する。さらに1991年、今度はホンダで世界選手権250ccクラスのタイトルも手にした。1995年には3冠王を目指してKTMで500ccクラスにも挑戦したがチャンピオンには届かず。その後、2005年まで現役でモトクロスを走った。パーカーは世界選手権2クラス制覇を達成した最初のアメリカンとなったが、彼の後にドニー・シュミットが続いた。
グレッグ・アルバーティン
MXGP1992/FIM MX125/CR125R
1993/FIM MX250/CR250R1992(125), 1993(250)
CR125R, CR250R
1973年生まれ、南アフリカ出身。祖国やオランダの国内選手権を走った後、1988年からモトクロス世界選手権に参戦。ヤン・デグロートが率いるJHKホンダに所属し、高木崇雅や元木龍幸と一緒に走った。1992年に125ccクラスのチャンピオンになると、1993年から250ccクラスにステップアップしてさらにチャンピオンを獲得。1994年にはスズキに移籍してトップとなり、250ccクラスを連覇。1995年からは戦いの場をアメリカに移し、1999年にはAMAモトクロス250ccクラスのタイトルも手にした。鈴鹿で開催された日本グランプリにも出場経験があり。
マルクス・ハンソン
MXGP1994/FIM MX500/CR5001994
CR500R
1969年生まれ、スウェーデン出身。1994年、モトクロス世界選手権500ccクラスにホンダから参戦、ジャッキー・マルテンス(ハスクバーナ)、ジョエル・スメッツ(ベルティマーティ)といった4スト使いを相手に戦った。最終戦のヒート1では、アンフェアなブロックをしてきたライダーを殴り、3,000スイスフランの罰金を科せられたハンソンだったが、ヒート2では気持ちをリセットして走りきり、見事タイトルを獲得した。1995年にはスーパークロスへ参戦していたが負傷し、その影響で現役を退くことになった。
ステファン・エバーツ
MXGP1996/FIM MX250/RC250M
1997/FIM MX250/RC250M 1996-1997
RC250M
1972年生まれ、ベルギー出身。父はモトクロス世界選手権V4チャンピオン、ハリー・エバーツ。1989年にモトクロス世界選手権にスズキを駆ってデビュー。1991年には世界選手権125ccクラスで初勝利し、その速さが開花して史上最年少チャンピオンに。1995年~1997年にはカワサキ、ホンダとチームを移りながら250ccクラスを3連覇。2001年~2006年にはヤマハで最高峰の500cc/MX1クラスを6連覇して引退。モトクロス世界選手権での10度のタイトル獲得と通算101勝という歴代最高の実績を残した。現在は息子のリアムがMX2クラスに参戦中で、エバーツ家3代目の世界チャンピオンを目指している。
フレデリック・ボレー
MXGP1999/FIM MX250/RC250M
2000/FIM MX250/RC250M 1999-2000
RC250M
1974年生まれ、フランス出身。1986年フランスのモトクロス国内選手権80ccクラスのチャンピオン、1990年にはフランス・スーパークロスの125ccクラスチャンピオンに。1997年に世界選手権250ccクラスにデビューしたボレーは、1998年にホンダへ移籍、1999年・2000年には連続してチャンピオンを獲得した。この年、ボレーが所属するPAMOホンダの監督が、モトクロス・デナシオンで対戦した高濱龍一郎に惚れ込み、獲得に意欲を示したことがあった。もし高濱のGPチーム入りが実現していたら、日本も含めた世界の勢力図は全く違ったものになっていたかもしれない。
アレッサンドロ・プツァール
MXGP1995/FIM MX125/CR125R1995
CR125R
1968年生まれ、イタリア出身。1988年にモトクロス世界選手権へデビュー。1990年にはスズキに乗って250ccクラスのタイトルを獲得したが、翌年から成績が低迷したことで引退説がささやかれるまでになった。ところが一念発起したプツァールは、1995年にはホンダを駆って125ccクラスに挑戦。同じイタリアンのアレッシオ・キオッディと接戦を繰り広げた末、最終戦で逆転チャンピオンというドラマを演じてみせた。20年以上の長きにわたりモトクロス世界選手権を走ったが、2009年に引退。
シリル・ヌヴー
ダカール(パリダカ)1986-1987/DAKAR/NXR7501986-1987
NXR750
1956年生まれ、フランス・オルレアン出身。モトクロス、エンデューロを経て1979年、初開催されたパリ・ダカール・ラリーにヤマハXT500で出場し、4輪まで含めた総合優勝という快挙を達成。翌1980年にも連覇すると、1982年にはホンダXR550に乗り換えて3勝目。1986年にはHRCによって開発されたラリーマシン・NXR750を与えられ、1986年・1987年と2度目の2連勝を達成。黎明期の長距離ラリーレイドを代表するライダーの1人。
ジル・ラレイ
ダカール(パリダカ)1989/DAKAR/NXR7501989
NXR750
1962年生まれ、フランス出身。フランス国内エンデューロ選手権のチャンピオンを多数獲得、I.S.D.E.でも9回優勝するなど、エンデューロを主戦場に活躍。1986年よりHRCからNXR750でパリ・ダカール・ラリーにも挑戦。1989年のパリ・ダカール・ラリーでついに勝利し、ホンダにパリ・ダカ4連覇をもたらした。しかし1992年、パリ・ダカール・ラリーでのリエゾン中、主催者のサポートカーに衝突してこの世を去る。
リッキー・ブラベック
ダカール(パリダカ)2020/DAKAR/CRF450RALLY2020
CRF450ラリー
1991年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。2007年からローカルなオフロードレースを走り始めると、2014年にはHare&Hound AMA選手権のチャンピオンとなり、バハ1000、バハ500も制覇するまでに成長。2016年にHRC入り、ダカール・ラリーへの挑戦を開始。5回目のダカールとなった2020年、第3ステージで首位に立つとそのまま逃げきって初勝利した。
ケビン・ベナビデス
ダカール(パリダカ)2021/DAKAR/CRF450RALLY2021
CRF450ラリー
1989年生まれ、アルゼンチン出身。若くして数多くのエンデューロレースに出場、I.S.D.E.で勝利するなどの輝かしい実績を残してから、2015年になってラリーレイドへ転向。FIMクロスカントリーラリー世界選手権にホンダを駆って参戦を開始、2019年にはランキング3位と活躍。ダカール・ラリーには2016年に初出場し4位、2018年2位。そして2021年、CRF450ラリーを駆りついにダカールを制している。
ババ・ショバート
AMA Grand National, AMA Superbike1985-'87/AMA Grand National/RS750D
1988/AMA Superbike/VFR750F1985-1987(Grand National), 1988(Superbike)
RS750D(Grand National), VFR750F(Superbike))
1962年生まれ、アメリカ・テキサス州出身。1980年にAMAグランドナショナルへハーレーで参戦を始め、1982年には初勝利を記録。1984年にホンダと契約すると、RS750Dなどを駆ってチームメートのリッキー・グラハムに次ぐランキング2位となる。そして1985年には5勝してタイトルを獲得、さらに1986年は9勝、1987年も6勝という安定した速さでグランドナショナルを3連覇。1988年はロードレースに本格参戦、VFR750FでAMAスーパーバイクでチャンピオンとなり、世界GPにもアメリカGP250ccクラスへのスポット参戦でデビューし5位。そして1989年、世界GPの最高峰500ccクラスにNSR500でフル参戦するチャンスをつかむ。しかし3戦目のアメリカGPでのアクシデントで重傷を負い、そのままレースキャリアを終えることになってしまった。
ダリル・シュルツ
AMA-MX1982/AMA MX500/RC500M1982
RC500M
アメリカ・カリフォルニア州出身。オフロードレースやモトクロスをやっていた父親の影響で、幼少期からレースを経験。1978年、マイコのマシンでAMAスーパークロスに参戦を始めると、翌1979年にはスズキと契約、AMAモトクロスとスーパークロスに参戦。1981年にデイトナ・スーパークロスなどで勝利して頭角を現わし、1982年にHondaへ移籍すると、期待に応えてAMA500ccクラスでチャンピオンを獲得。スーパークロスではタイトルを逃したが、再びデイトナで勝利するなどの活躍をして注目された。だが、10代の頃に負傷してから何度も手術を繰り返してきたヒザが限界を迎え、1982年シーズン限りで選手生命を終えた。
デビッド・ベイリー
AMA-MX, AMA-SX1983/AMA SX250/RC250M
1983/AMA MX250/RC250M
1984/AMA MX500/RC500M
1986/AMA MX500/RC500M1983(SX250, MX250), 1984(MX500), 1986(MX500)
RC250M, RC500M
1961年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。10歳の時にモトクロスライダーだった養父のゲイリー・ベイリーからオートバイを与えられ、1979年からプロのモトクロスライダーとして活動。1982年にHondaに移籍、この年のモトクロス・デナシオンでのチームUSAの勝利に貢献。1983年にAMA250ccクラスとスーパークロスのダブルタイトルを取り、世界選手権のUSGPにもスポット参戦して優勝。翌1984年にはAMA500ccクラスのタイトルも獲得、モトクロス・デ・ナシオンでも再び勝利。1986年には再びAMA500ccを制するなど、まさに絶頂期を迎える。しかしその最中、1987年シーズンを前にしたトレーニング中にクラッシュ。下半身不随となりモトクロスから退いた。
リック・ジョンソン
AMA-MX, AMA-SX1986/AMA SX250/CR250R
1986/AMA MX250/CR250R
1987/AMA MX250/CR250R
1987/AMA MX500/CR500R
1988/AMA SX250/CR250R
1988/AMA MX500/CR500R 1986(SX250, MX250), 1987(MX250, MX500), 1988(SX250, MX500)
CR250R, CR500R
1964年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1981年からAMAプロデビューを果たし、1984年にAMA250ccモトクロスで初タイトルを獲得。1986年にはAMAでファクトリーマシンが禁止され、プロダクションルールが施行されたが、ジョンソンはHondaに移籍してAMAナショナルとスーパークロスのダブルタイトルを手にする。その後も勢いは止まらず、1987年には250ccと500cc、1988年には500ccとスーパークロスと、3年連続でダブルタイトルという圧倒的な速さを見せた。1989年シーズンもスーパークロス開幕7連勝とその速さは変わらなかったが、右手首を骨折した影響でタイトル獲得を逃す。1990年、1991年も本来の走りは戻らず、引退に追い込まれた。
ドニー・ハンセン
AMA-MX, AMA-SX1982/AMA SX250/RC250M
1982/AMA MX250/RC250M1982
RC250M
1959年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。高校時代にオートバイに興味を持ち、ダートトラックレースやモトクロスを始める。カナダのメーカーであったCan-Amを経て、1980年にHonda入り。1981年シーズンには、チームUSAとしてジョニー ・オマラらとモトクロス・デナシオンで勝利を挙げる。1982年にはAMAモトクロス250ccクラスとAMAスーパークロスを同時に制覇する快挙を達成。スタートが得意だったハンセンのニックネーム「ホールショット」は、彼の活躍によって世界中に広まり、今では標準的なレース用語として定着している。
ジョニー・オマラ
AMA-MX, AMA-SX1983/AMA MX125/RC125M
1984/AMA SX250/RC250M1983(MX125), 1984(SX250)
RC125M, RC250M
1961年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。ローカルヒーローだったオマラがその名を広く知らしめたのは、無限で走っていた1980年、スポット参戦したモトクロス世界選手権USGP125ccクラスでの勝利だった。1981年にはHondaと契約し、1983年にはAMAモトクロス125ccクラスを制覇すると、翌1984年にはスーパークロスでもチャンピオンに。1985年の世界選手権アメリカGPでは250ccクラスで勝利した。1981年、1982年、1984年、1986年にはモトクロス・デナシオンで米国チームの優勝メンバーに。引退後はマウンテンバイクで活躍しつつ、トレーナーとしてモトクロス界にも貢献。近年は250ccチャンピオン、ジェット・ローレンスを指導している。
ジェフ・スタントン
AMA-MX, AMA-SX1989/AMA SX250/CR250R
1989/AMA MX250/CR250R
1990/AMA SX250/CR250R
1990/AMA MX250/CR250R
1992/AMA SX250/CR250R
1992/AMA MX250/CR250R 1989(SX250, MX250), 1990(SX250, MX250), 1992(SX250, MX250)
CR250R
1968年生まれ、アメリカ・ミシガン州出身。1987年にAMAルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。Honda入りして2年目となる1989年には、AMA250ccモトクロスとスーパークロスを制して初のメジャータイトルを獲得。1990年にもこの2つのチャンピオンシップを連覇。1991年はタイトルを逃したが、1992年には3度目のダブルタイトルを記録してみせた。1994年シーズン限りで現役を引退したが、その後もアドバイザーとしてチームホンダに留まり、後進の育成にあたった。
ジェレミー・マクグラス
AMA-MX, AMA-SX1991/AMA SX125 West/CR125R
1992/AMA SX125 West/CR125R
1993/AMA SX250/CR250R
1994/AMA SX250/CR250R
1995/AMA SX250/CR250R
1995/AMA MX250/CR250R
1996/AMA SX250/CR250R 1991-1992(SX125 West), 1993-1996(SX250),1995(MX250)
CR125R, CR250R
1971年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1989年からプロとして活動、1991年・1992年にAMAスーパークロスのルーキークラスである125cc西地区の連続チャンピオンとなる。1993年にファクトリーに昇格すると、1996年まで4年連続でスーパークロスチャンピオンとなる離れ技を演じる。中でも圧巻は1996年で、全15戦中14勝という驚異的な速さを見せた。並行して参戦していたAMA250ccクラスでも1995年にチャンピオンを獲得した。後年はヤマハで3連覇するなど、7度のタイトル獲得と史上最多の通算72勝という記録は、誰にも破られていない。
リッキー・カーマイケル
AMA-MX, AMA-SX2002/AMA SX250/CR250R
2002/AMA MX250/CR250R
2003/AMA SX250/CR250R
2003/AMA MX250/CR250R
2004/AMA MX250/CRF450R 2002-2003(SX250, MX250), 2004(MX250)
CR250R, CRF450R(2004)
1979年生まれ、アメリカ・フロリダ州出身。1996年AMAルーキー・オブ・ザ・イヤー、1997年にはAMAモトクロス125ccクラスでタイトルを獲得した。1998年、1999年にも同クラスを制し3連覇。2000年には250ステップアップしてチャンピオン、2001年にはAMAモトクロスとスーパークロスをダブル制覇。ホンダに移籍した2002年には、AMAモトクロス12戦24レースで全勝し、前人未到のパーフェクトシーズンを達成した。その後もカーマイケルの快進撃は続き、カワサキ~ホンダ~スズキと乗り継いだ、10年間で合計16のAMAタイトルを獲得。ニックネームはGOAT(Greatest Of All Time)。
デイビー・ミルサップス
AMA-SX2006/AMA SX250 East/CRF250R2006
CRF250R
1988年生まれ、アメリカ・フロリダ州出身。2006年から呼称がライツと改められた、AMAスーパークロス250でイーストを制したのがミルサップス。ファクトリーコネクションのジョシュ・グラントが強敵だったが、チームホンダのミルサップスはシリーズ7戦中4勝をマークして逃げ切った。このタイトルはCRF250Rによる初の栄冠であり、ホンダが後年スーパークロス東部地区で圧倒的な強さを発揮する足掛かりとなった。
トレイ・カナード
AMA-MX, AMA-SX2008/AMA SX250 East/CRF250R
2010/AMA MX250/CRF250R2008(SX250 East), 2010(MX250)
CRF250R
1990年生まれ、アメリカ・オクラホマ州出身。モトクロス一家で育ち、アマチュア時代から速さを見せる。2007年にプロ転向してHondaと契約し、2008年にはAMAスーパークロス250東地区チャンピオン。2010年にはCRF250RでAMAモトクロス選手の250ccクラスで初のメジャータイトルを獲得、またモトクロス・デナシオンのアメリカチームに加わり勝利にも貢献した。翌年の2011年からはAMA450ccクラスとスーパークロスを主戦場とするようになる。現在はチームホンダHRCのテストライダーとして、黒衣役に徹している。
ジャスティン・バーシア
AMA-SX2011/AMA SX250 East/CRF250R
2012/AMA SX250 East/CRF250R2011, 2012
CRF250R
1992年生まれ、アメリカ・ニューヨーク州出身。ニックネームの「バンバン」は、ワイルドな走りが由来。バーシアはAMAスーパークロス250イーストを2連覇したが、2011年はディーン・ウィルソン(イギリス)、2012年はケン・ロクスン(ドイツ)を破った上でのタイトルだっただけに、アメリカ人の愛国心を刺激した。2012年は250ウエストでイーライ・トマックがチャンピオンに輝いたが、ガイコ・ホンダにとっては初めてスーパークロスの東西を制すダブルタイトルだった。
イーライ・トマック
AMA-MX, AMA-SX2012/AMA SX250 West/CRF250R
2013/AMA MX250/CRF250R2012(SX250 East), 2013(MX250)
CRF250R
1992年生まれ、アメリカ・コロラド州出身。父はマウンテンバイクのレジェンド、ジョン・トマック。2010年からHondaでプロとしての活動を開始。2012年AMAスーパークロスライツ西地区チャンピオンになり、2013年にはAMAモトクロス選手権250ccクラスチャンピオンに。カワサキ、ヤマハと移籍した後、2022年にはモトクロス・オブ・ネイションズのアメリカ代表として、祖国に11年ぶりの勝利をもたらした。
ウィル・ハーン
AMA-SX2013/AMA SX250 East/CRF250R2013
CRF250R
1989年生まれ、アメリカ・テキサス州出身。兄のトミー・ハーンは、ファクトリーコネクションとチームホンダに所属しながらタイトルには縁がなかったが、弟のウィルは2013年AMAスーパークロス250イーストチャンピオンになった。一騎打ちで覇権を争ったランキング2位のマービン・ムスキャンとは、3点差という接近戦だった。ハーンは引退後、トレーナーやチームマネージャーとしてモトクロス界に貢献している。
ジャスティン・ボーグル
AMA-SX2014/AMA SX250 East/CRF250R2014
CRF250R
1993年生まれ、アメリカ・オクラホマ州出身。ロレッタ・リン=AMAアマチュア全米選手権で、パーフェクトという戦果を引っ提げてプロデビューしたボーグル。2014年には彼がAMAスーパークロス250イーストを制したことで、ガイコ・ホンダ=ファクトリーコネクションは4連覇を達成した。ボーグルは同年、AMAモトクロスでも上位フィニッシュを積み重ね、シリーズランキングトップ5を得る。2015年はSX250イーストにディフェンディングチャンピオンとして参戦したが、マービン・ムスキャンに王座を譲った。
マルコム・スチュワート
AMA-SX2016/AMA SX250 East/CRF250R2016
CRF250R
1992年生まれ、アメリカ・フロリダ州出身。ジェイムズ・スチュワートの弟、マルコムはガイコ・ホンダとスーパークロスに限定した契約に基づき参戦。2016年にはAMAスーパークロス250イーストチャンピオンに輝いた。450へのステップアップに備えるため、その年のAMAモトクロスには出場せず練習に明け暮れた。体格的にも大排気量に向いているスチュワートは、450ccクラスでトップ3にランクされるリザルトを残している。
チェイス・セクストン
AMA-SX2019/AMA SX250 East/CRF250R
2020/AMA SX250 East/CRF250R2019-2020
CRF250R
1999年生まれ、アメリカ・イリノイ州出身。AMAスーパークロス250イーストを2連覇したセクストン。2019年は9戦中1勝、2020年は9戦中5勝という対照的なリザルトで、シリーズチャンピオンになった。2020年の夏には、ガイコ・ホンダからホンダHRCに昇格し、AMAモトクロス450クラスに参戦。2022年にはイーライ・トマックを相手に1ポイント差で最終戦を迎え、史上最少得点差のタイトル争いを演じた。9月にはモトクロス・オブ・ネイションズのアメリカ代表に選出され、11年ぶりとなる優勝に貢献した。
ジェット・ローレンス
AMA-MX, AMA-SX2021/AMA MX250/CRF250R
2022/AMA SX250 East/CRF250R
2022/AMA MX250/CRF250R 2021(MX250), 2022(X250 East, MX250)
CRF250R
2003年生まれ、オーストラリア出身。幼い頃から兄のハンターとモトクロスで活躍。2014年にジュニア世界選手権の65ccクラスで勝利すると、モトクロスに専念するため一家でオランダに移住した。2018年のヨーロッパモトクロス選手権250ccクラスをスズキで走り、最終戦で勝利。その後一家でアメリカに活動の場を移し、2019年からAMAモトクロス選手権の250ccクラスに参戦。HRC入りした2021年・2022年にAMA250モトクロスを連覇し、2022年はさらにスーパークロス250イーストチャンピオンにもなっている。兄とはガイコ・ホンダ、HRCを通じてのチームメイト。
ロン・ラシーン
AMA-MX1985/AMA MX125/RC125M1985
RC125M
1966年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1983年にヤマハと契約し、AMAのプロランクに参戦開始。1984年にはHondaへ移籍し、翌1985年にはAMA125ccモトクロスチャンピオンとなった。個人的なタイトルよりもUSGPやモトクロス・デナシオンの勝利を重視するラシーンの価値観は、アメリカへの愛国心に立脚していた。そのためか、天才的・刹那的と称されるラシーンの覇権は長く続かなかった。引退後は父親が経営するオイルメーカー、MAXIMAに籍を置き、モトクロス界をサポートしている。
ミッキー・ダイモンド
AMA-MX1986/AMA MX125/CR125R
1987/AMA MX125/CR125R 1986-1987
CR125R
1965年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1982年からマイコ、ハスクバーナでAMAモトクロス選手権を走る。1986年に見出されHondaへ移籍、1986年・1987年の2年連続でAMAモトクロス125ccチャンピオンとなる。1988年にヤマハへ移籍し、1992年にモトクロスを引退。FMXをプロデュースするなど長いブランクの後、2003年からモタードのレースへ参戦。2005年にはAMAスーパーモト選手権チャンピオンとなっている。
キース・ターピン
AMA-SX1986/AMA SX125 East/CR125R1986
CR125R
1969年生まれ、アメリカ・ジョージア州出身。1985年からAMAスーパークロスに125クラスが新設されたが、2シーズン目の1986年には早くもホンダのサポートプログラムが開花し、ターピンが125イーストチャンピオンとなった。同年の東西交流戦ダラスでは、ドニー・シュミット、ジェフ・マタセビッチ、ロン・ティシュナー、タイソン・ボーランドといったカワサキ勢を向こうに回し、多勢に無勢を覆す優勝を飾っている。
ジョージ・ホランド
AMA-MX1988/AMA MX125/CR125R1988
CR125R
子どもの頃からスズキを駆ってモトクロスを走っていた。1981年からプロとしてスズキでAMAモトクロス選手権とスーパークロスを走り始め、1985年・1986年にはAMA125ccクラスで連続ランキング3位、1987年は2位と常にトップを争うようになる。1988年にHondaへ移籍して、ついにAMA125ccクラスのチャンピオンとなった。1989年は連覇を狙ったが、肩の古傷の影響もあってそれはならず。シーズン終了後に現役を引退。
マイク・キドラウスキー
AMA-MX1989/AMA MX125/CR125R1989
CR125R
1969年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1987年からプロのライダーとしての活動を始め、当初はカワサキと契約してAMAモトクロス選手権125ccクラスやスーパークロスに参戦。1989年にチームホンダに加入したが、ディフェンディングチャンピオンのジョージ・ホランドと同等のハードウエアは得られなかった。そんな逆境にありながら、AMAモトクロスの125ccタイトルを獲得。この年のキドラウスキーの762番は、最も大きなゼッケンのチャンピオンとして、AMAのヒストリーに刻まれている。キドラウスキーは後にAMAモトクロス250ccと500cを制覇し、史上2人目の3冠王となった。
ブライアン・スウィンク
AMA-SX1991/AMA SX125 East/CR125R1991
CR125R
1972年生まれ、アメリカ・ミシガン州出身。1991年にAMAスーパークロス125イーストチャンピオンとなったスウィンク。SX125ウエストのジェレミー・マクグラスとともに、ピーク・プロサーキット・ホンダによる東西完全制覇の一翼を担う。結成初年度のチームメイトには、スティーブ・ラムソン、ジェロミー・ビュールら逸材が揃っていた。スウィンクは翌年スズキファクトリーに移籍し、125イーストタイトルの防衛に成功している。
ダグ・ヘンリー
AMA-MX, AMA-SX1993/AMA SX125 East/CR125R
1993/AMA MX125/CR125R
1994/AMA MX125/CR125R1993(SX125 East, MX125), 1994(MX125)
CR125R
1969年生まれ、アメリカ・コネチカット州出身。キャリア初期はヤマハと契約していた。初タイトルはHondaへ移った1993年のAMA125モトクロスで、1994年も同クラスを連覇する。1995年には250ccクラスに注力したが、バッズクリークでの大クラッシュで重傷を負った。復帰後は4スト乗りとして本領を発揮し、1998年には250ccタイトルを獲得。下半身不随となった後も、モトクロスのみならずスーパーモトやスノーモビルに参戦している。
スティーブ・ラムソン
AMA-MX1995/AMA MX125/CR125R
1996/AMA MX125/CR125R1995-1996
CR125R
1971年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。今や伝説となっている、ピーク・プロサーキット・ホンダの初代メンバーとして、125クラスを盛り上げた。AMAのタイトルを獲ったのは、ファクトリーチームに入った1995年の125ccクラスで、1996年にもチャンピオンとなり連覇。2000年には、ラムソンと成田亮がチームアップしてAMAナショナルを転戦した。全日本モトクロスが開催されていたグリーンパーク弘楽園にあるラムソンジャンプは、来日時に初めて飛び越えたラムソンの名を冠したもので、唯一無二の名所となっている。
トラビス・プレストン
AMA-SX2002/AMA SX125 West/CR125R2002
CR125R
1978年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。2002年AMAスーパークロス125ウエストチャンピオン。シーズン2勝のプレストンが、3勝のジェイムズ・スチュワートを僅差で下した。マイク・ラロッコのプライベートチームとして発足した、ファクトリーコネクション・ホンダが、5シーズン目に獲得した初タイトル。2004年からホンダのマシンが4ストにスイッチする過渡期でもあり、CR125Rにとってはスーパークロスにおける最後のチャンピオンシップとなった。
タイ・デイビス
AMA-SX1990/AMA SX125 West/CR125R2002
CR125R
1969年生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。デイビスにとって最初のメジャータイトルは、1990年のAMAスーパークロス125ウエストチャンピオン。ジェレミー・マクグラスを破ったことが誇りだったが、当時のポイント制度によって250クラスへの昇格を強いられ、スーパークロス以外のジャンルに転身した。4ストロークナショナル、エンデューロ、ヘア&ハウンドなどを制覇したデイビスは、後にオフロードパーツを販売するジップタイ・レーシングを設立。2012年にはAMAの殿堂にその名が刻まれた。