INDYCAR SERIES

INDY500 ~夢と挑戦の始まり~

Hondaがインディカー・シリーズに初めて参戦したのは1994年のこと。しかし、その始まりは1964年にまでさかのぼる。インディカーの世界に数々の歴史を打ち立てたHondaのINDY500挑戦の歴史をふりかえる。

INDY500 ~夢と挑戦の始まり~

1964年:始まりの年

1964年5月。第48回を迎えた “インディアナポリス500マイル”の会場に本田宗一郎氏の姿があった。その時期、本田技術研究所がF1のデビューに向けて、最後の調整真っ只中のはずだったが、2輪/4輪のレーサー設計室の責任者・新村公男氏を引き連れてアメリカに渡り、F1とは別の視点からオーバルレースを見物したのだ。

もちろん、見物のために“インディ”を訪れたのではない。レーサー設計室では、当時すでにINDY500へのチャレンジが計画され、具体的に動き始めていた。


1968年:インディアナポリス・スピードウエイ テスト

1968年11月3日のF1GP最終戦メキシコGPをもって、Hondaは第一期F1活動を休止した。その最終戦を終えた当時のHondaF1チーム監督、中村良夫氏は、そのまま日本に帰らず、インディアナポリス・モータースピードウェイに、Honda第一期F1最後のレースであるメキシコGPを走ったRA301を持ち込んで、2日間の走行テストを慣行していた。 目的は“インディカーとF1マシンの比較”である。

中村氏は、テストの状況をA4のレポート用紙6枚にわたり詳細に書き残した。このテストは、単なるテストではなく、F1チャレンジを中断させられた中村氏の、インディカー挑戦への呼びかけだったのかもしれない。


1968年、テストのためRA301はインディアナポリス・スピードウエイに持ち込まれた
1968年、テストのためRA301はインディアナポリス・スピードウエイに持ち込まれた

1987年-89年:胎動のとき

中村氏のテストから、18年が過ぎた1987年5月、初めてINDY500を観戦した朝香充弘氏(のちに、CARTプロジェクトリーダー、HPD副社長を務める)が、HondaのINDY計画を再び動かしていく。朝香氏は「F1のエンジンがやりたくてHondaに入った」と語るほど、レースに魅入られた人間だった。

この朝香の情熱と、当時のアメリカン・ホンダ・モーター(AH)社長の雨宮高一氏の「Hondaのモータースポーツにおける強さや、チャレンジングスピリットを米国人にも分かってもらいたい」という考えが重なったのだ。

早速、和光研究所ではインディカー・レース用のエンジン試作に着手した。ところがその後、当時参戦中であったF1で苦戦を強いられ、インディカー・レースのエンジンテストは休止。その要員もすべてF1チームをフォローすることになった。しかし、そんな状況でも、朝香氏は、さまざまな参戦案をつくり、いつでも開発に取り掛かれるように準備をしていた。


1992年-1993年:インディカー・ワールド・シリーズ参戦前夜

1992年9月、F1参戦休止が宣言されると、朝香氏はインディカー・レースのエンジン開発チームを再結成。翌年1月には、デトロイトオートショーにおいて、雨宮氏よりPPGインディカー・ワールド・シリーズへの参戦計画が発表された。だが、1993年に参戦を発表した直後から、Hondaへの風当たりが強くなっていった。可変機構やエアバルブなど、HondaがF1で用いてきた技術は、細部に至るまで禁止。加えて、『新規に参戦してくるエンジンサプライヤーは、初年度は2チーム・3台以上、2年目には3チーム・6台以上の供給を義務付ける』という、Hondaにとっては非常に厳しい規定が新設されたのだ。

主催者は新規定を曲げてくれることもなく、一時は参戦が危ぶまれるような状況にもなった。2チーム目としてComptech Racingと契約し、3人のドライバーで4、5戦程度参戦することで納得してもらい、ようやくスタートのめどが立ったのだった。


Honda初参戦の1994年PPGインディカー・ワールド・シリーズの開幕戦。ドライバーはボビー・レイホール
Honda初参戦の1994年PPGインディカー・ワールド・シリーズの開幕戦。ドライバーはボビー・レイホール

1994年-1995年:参戦31戦目の初勝利

こうした苦労を乗り越え、1994年3月、ついにHondaはデビューを果たす。しかし、その注目とは裏腹に、参戦初年度の94年シリーズの結果は、惨たんたるものであった。中でもINDY500ではチームが予選中に、エンジン供給元を変更したことで、Hondaとしては決勝に進むことすらかなわなかった。インディカー・レースの厳しさを見せつけられたであった。

しかし、この屈辱がHRH型という新エンジン開発の起爆剤となった。94年シリーズを戦ったHRX型エンジンの改良に必死に取り組んでいたチームは、そのエンジンで戦いつつも、新型エンジンを並行開発するという離れ業に着手。そして、Comptech Racingとともに数々のテストが繰り返された。

そして迎えたINDY500の公式予選。1995年5月14日、HRH型エンジンを搭載したTasman Motorsportのマシンは、フロントロー(3位)に並んだ。5月28日の決勝では終盤までトップを走る快走を見せたが、ゴールまであとわずかでペースカーを追い越し、ペナルティー。結果は14位となった。「勝負に勝ったけど、レースに負けた」と朝香氏は、その戦いぶりを表現した。

その後もHRH型エンジンの熟成は重ねられる。そしてついに95年シリーズ第15戦、ニューハンプシャーで念願の初優勝を果たした。1994年3月の初参戦から数えて、実に31戦目の勝利であった。


1995年ニューハンプシャーでの第15戦で初勝利を挙げる
1995年ニューハンプシャーでの第15戦で初勝利を挙げる

2004年:INDY500初優勝

1996年シリーズのHondaは年間16戦中US500を含めて11勝という成績を収め、インディカー・ワールド・シリーズのマニュファクチャラーズ・タイトルとPPGカップチャンピオン、ルーキー・オブ・ザ・イヤーという三冠達成。その後2001年まで6年連続で98-99年、01年と4度マニュファクチャラーズ・タイトルを獲得した。そして、2003年にはINDY500への挑戦を再開する。

翌2004年、第88回INDY500で、Honda Indy V-8搭載のバディ・ライス(Rahal Letterman Racing/G Force)が優勝を飾った。これはライスにとってのインディカー・シリーズ、INDY500の初優勝であるばかりでなく、Hondaにとっても初のINDY500制覇であった。この年、トップ7までがHondaのエンジンを搭載していた。1社のエンジンがINDY500でトップ7までを占める快挙を達成した。

始まりの1964年から40年目にして、Hondaは世界最大の自動車レースを制したのだ。


2004年にINDY500初勝利
2004年にINDY500初勝利

2017年-2020年:佐藤琢磨とともにINDY500の歴史を創る

2017年には、2010年からインディカー・シリーズにフル参戦していた佐藤琢磨(Andretti Autosport)が、日本人、そしてアジア人として初めてINDY500で優勝。さらに、パンデミックの影響で8月に延期、史上初となる無観客レースとなった2020年には2勝目を挙げている。Hondaと佐藤は、1世紀以上の歴史を持つINDY500に、新たな歴史を刻んだのだ。


2017年に佐藤琢磨がINDY500の歴史にその名を刻んだ
2017年に佐藤琢磨がINDY500の歴史にその名を刻んだ

Honda、そして佐藤琢磨は、2022年も第106回目を迎えるINDY500に参戦する。今年、そしておそらくこれからも、Hondaの飽くなきチャレンジスピリットが、インディカー・シリーズやINDY500の歴史を創っていくはずだ。


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