Trial

Hondaの挑戦が生んだ、トライアル世界チャンピオンの系譜:第2期 「2ストローク(水冷/プロリンク) モータースポーツへのあくなき情熱が生んだ、新たなる 黄金時代」

Hondaの挑戦が生んだ、トライアル世界チャンピオンの系譜:第2期 「2ストローク(水冷/プロリンク) モータースポーツへのあくなき情熱が生んだ、新たなる 黄金時代」

第1章 Honda初の2ストローク、TLMシリーズ

(文中敬称略)
人は、何かを失うことによって、何かを得るという。Hondaという企業もまた、トライアルにおける4ストロークへのこだわりを捨てることによって、新たに2ストロークの可能性を追求、ついには4ストロークを上回る数々の栄光を勝ち取っていくことになる。

Hondaが2ストロークエンジンを搭載したトライアルバイクを世に出す始まりとなったのは、TLMシリーズだった。第1期の4ストローク、第一世代(空冷/ツインショック)がそうであったように、当初は公道走行可能な市販車を開発して発売し、一般ライダーにHondaの2ストローク・トライアルバイクが広められた。その後、競技専用に開発されたHRCのレーサーが提供され、全日本選手権には2ストロークのワークスマシンが登場。そうしたさまざまな展開や試みなどを経て、Hondaはまた新たな手法で世界選手権への参戦を再開することになるのだ。

Hondaの2ストロークが、トライアル世界チャンピオンの系譜に初めて名を連ねる。 ――そこに至る歴史を紐解くにはまず、2ストローク化への第一歩となった、TLMシリーズについてまとめておかなければならないだろう。


1. 初の2ストローク市販車、Honda TLM50

Honda初の2ストローク・トライアルバイクとなったTLM50は、実は第1期(4ストローク、第一世代)の只中に登場している。1983年、4ストロークのTLR200やTL125に続いて、2ストロークのTLM50も同年12月20日に発売されたのだ。「軽量でスリムなトライアル入門用バイク」として、空冷2ストローク・エンジン(49cc)を搭載、リアサスペンションはツインショックだった。



50ccならではの扱いやすさや安心感から、子どもはもちろん大人にまで人気となり、TLM50の普及によって「50ccトライアル大会」が全国各地で開催されるほどだった。

そしてHondaは、1985年にTLM200Rを発売。「本格的なトライアル競技や、ツーリング走行などが楽しめる。軽量・小型設計の空冷・2ストローク・単気筒エンジンを搭載。サスペンションは、後輪にプロリンクを採用」として、当時全国で数多く開催されていたツーリングトライアル大会用のバイクとしても人気を博した。



一方、翌1986年は4ストロークのTLR250Rを発売。「近年盛んになりつつあるトライアル・スポーツやツーリングに適した、新設計4サイクルエンジン搭載の軽量でスリムなトライアル・スポーツバイク」として、「トライアル車では世界初の分割式センタータンク方式を採用」するなど、新たな試みで注目を集めた。さらに翌1987年は、人気のTLM200Rがマイナーチェンジされた。

そして1988年は排気量を216ccに拡大して、フロントブレーキは油圧ディスク式とするなど、グレードアップしたTLM220Rを発売した。このTLM220Rも根強い人気を得て、1993年にもカラーリングを変更して発売されたが、1994に生産を終えて、公道走行可能な市販車はカタログから姿を消すこととなった。しかしその後も、TLMシリーズは多くの人々に長く愛されている。TLM220Rは四半世紀以上が過ぎた現在も、ツーリングトライアルで活躍している。特にTLM50は現在も静かに人気が高まっている「旧車大会」で複数台見かけることも珍しくなく、「50ccならば軽くて、怖くない、無理をせずに楽しめる」と、40年近く経った今も「トライアルを長く楽しめるバイク」として老若男女に高い評価を得ている。


2. Honda TLM260Rで世界に挑んだ、成田匠

競技専用のHRC市販レーサーとして最初に話題となったのは、1987年に発売された子ども向けの空冷2ストロークマシン、RTL50Sだった。モノサスやクラッチ、小径ホイールなどが特徴で、貴重な子どもサイズの入門用トライアルバイクとして、家族で楽しむ親子から親子へと譲り継がれ、今日でも重宝されている。1987年当時発売されていた、4ストロークのRTL250S(1986年の全日本チャンピオン山本昌也が乗っていた)と同じピンクのカラーリングでも注目を集めていた。

――こうしたバイクでトライアルの楽しさを知った子どもたちが、その後、世界で活躍するHondaのバイク、そしてHondaに乗る日本人ライダーに夢や憧れを抱くようになっていくのだった。

1988年、全日本選手権トライアルには2ストロークのワークスマシン、TLM250RWが登場。山本昌也が乗りランキング4位となった。そして翌1989年は、HRCのレーサーとして、TLM240R、TLM250Rが発売され、成田匠が全日本チャンピオンを獲得。1986年の山本昌也以来、3年ぶりとなるHondaの王座奪還に成功した。



成田匠は、第1期の第1章に登場した成田省造(1973年に発売されたHonda初のトライアルバイク、バイアルスTL125でスコットランドの6日間トライアル大会に挑戦した)の長男で、バイアルスTL125発売当時はまだ2歳だった。その成田匠が18歳となった1989年、全日本チャンピオンを足がかりに、翌1990年は同年発売されたTLM260R(空冷・2ストローク)で世界選手権トライアルへの参戦を開始した。つまり、それはHondaが育んできた日本のトライアルから、親子二代にわたり海外に挑戦するライダーが現れた、歴史的な瞬間でもあったのだ。



1990年、TLM260Rで世界に挑んだ成田は、第6戦西ドイツGPで最高6位となり、年間ランキング12位に名を連ねた。翌1991年もTLM260Rで、最終戦チェコスロバキアGPにおいて最高5位、年間ランキング8位に食い込んだ。翌年、成田は日本人として初めてイタリアのベータに移籍、Hondaで活動したそれまでの経験を活かして、1992年は第4戦アイルランドGPで日本人として初めて3位表彰台に駆け上がった。そして成田は、現役引退後も今日までトライアル日本GPの開催に尽力するなど、日本のトライアルの発展を大きく支えている。

1991年は、小林直樹もまたHonda TLM260Rで世界にスポット参戦し、最終戦チェコスロバキアGPにおいて42位となった。小林は全日本にHondaのワークスライダーとして参戦。1990年は最高ランキング3位となっている。1991年までHondaワークスライダーとして活躍。1994年にHondaと契約して、イベントでのトライアルデモンストレーション走行や、スクールのインストラクターなどで、現在も活躍中だ。

Hondaの2ストロークマシンTLMでもう一人、世界的な活躍により社会に大きな影響を与えたのは、“ウイリー・キング”工藤靖幸だった。それまでも接着剤アロンアルファのテレビコマーシャルなどで、トライアルで培った技術を披露して世間の注目を集めてきた工藤は、1991年にTLM220Rをウイリー用に改造したマシンで、ウイリーの「ギネスブック」に挑戦。見事に331kmという世界新記録を打ち立てた。



その後も、各地のデモンストレーション走行で、バイクを操る卓越した技術を市井の人々に披露し続けたのだった。


第2章 Hondaの市販レーサーが生んだ、数々の栄光

1982年にHonda RTL360とエディ・ルジャーンは、世界選手権トライアル史上初めて4ストロークマシンでタイトルを獲得した。その後もHondaは、ルジャーンとともに1984年まで3連覇を達成。これはスペインのブルタコ(1976年から1978年まで3連覇)に続く、史上2度目のタイ記録となった。しかし以後はいよいよ2ストローク全盛となり、イタリアのファンティック、ベータ、アプリリア、スペインのガスガスといった2ストローク勢がタイトルを取り続けることとなった。これに対してHondaは、世界選手権(1975年からスタート)の前身であるヨーロッパ選手権の時代から長年トライアルで戦ってきたスペインの名門メーカー、モンテッサと手を組むことになった。モンテッサは1980年にウルフ・カールソンのライディングで一度タイトルを獲得していたが、その後は不況による経済的な打撃を受けていた。

そんな経緯もあって、Montesa Hondaは合弁会社として1980年、スペインに設立された。しかしMontesaとHondaが連携した本格的な2ストロークのトライアルマシンが生まれるのは、それからずっと後のことになる。実際、前記したようにHondaはルジャーンとともに4ストロークで1982年から1984年まで世界選手権を3連覇。その後も1987年まで、Honda RTL250SWとルジャーンの世界参戦は続けられていた。


1. Honda 2ストロークで初の世界チャンピオンを獲得した、マルク・コロメ

Montesa Hondaは1994年、満を持してニューマシンを発表した。それは、アルミツインチューブのフレームに、初めてHRC製の水冷・2ストロークエンジンを搭載した、COTA 314Rだった。そしてまた、同じ1994年にはCOTA 314Rと同型の兄弟車として、日本ではHonda TLR260(従来は4ストロークに使われていたTLRという名称が、初めて2ストロークに採用された)が発売された。両車とも、ガッチリとしたフレームの造りと、倒立式のフロントサスペンションなどが特徴だ。

そしていよいよ1996年に、COTA 314Rでの実戦経験から得られたノウハウを活かして、極限まで軽量化された画期的なニューマシンが世界選手権にデビューする。それが、COTA 315Rのプロトタイプだった。ライダーはスペインのマルク・コロメで、全10戦で行われたシリーズ戦で5勝をマーク。Hondaの王座奪還を実現するとともに、2ストロークで初めての世界チャンピオン獲得をもたらした。




このCOTA 315Rは、翌1997年に市販された。一方、同じ1997年に日本ではCOTA 315Rと兄弟車のHonda RTL250Rが、競技用モデルとして発売されることになった。そのプロトタイプでもあったワークスマシンRTLで、1996年は、藤波貴久が世界選手権にチャレンジすることになった(詳細は後述)。

1997年、COTA 315Rは市販され、その後はワークスマシンでドギー・ランプキン、マルク・フレイシャ、そして藤波貴久らが、多くの勝利を収めていくことになる。

4ストロークから2ストロークへと、大きく変わったのはエンジンの仕組みだけではない。空冷から水冷、ツインショックからプロリンクのモノショックへと、それぞれも飛躍的に進化を遂げている。その新たな高みにおいても、Hondaは圧倒的な技術力を発揮して他の追随を許さない歴史を刻んでいくのだった。


2. COTA 315Rと、帝王ドギー・ランプキン

1975年にスタートした世界選手権トライアルで最初にチャンピオンとなったのは、イギリスのマーチン・ランプキン(ブルタコ)だった。その息子であるドギー・ランプキンが頭角を現したのは1997年。イタリアのベータに乗り初の王座につくと、1999年まで3連覇した。注目すべきはその勝率の高さで、1997年の世界選手権トライアルは全19戦中13勝、1998年は全18戦中15勝、1999年に至っては全20戦中18勝と、どんどんその強さを増していった。

Hondaは、そのランプキンを2000年以降のパートナーとして選んだ。2000年から世界選手権トライアルにおけるHondaのワークスチームは「Montesa HRC」となり、COTA 315Rは正式にHondaのワークスマシンとなった。Montesa HRCからCOTA 315Rで臨んだ2000年、ランプキンは全20戦中17勝と1年目から大活躍して、マシンの完成度の高さを証明した。




その後も2001年は全18戦中11勝、2002年は全16戦中10勝と高い勝率で勝ち続けた。だが2003年に関しては、ランプキンは全18戦中4勝と勝ち星を一気に減らさざるを得なかった。それはもちろんマシンのせいではなく、ほかならぬチームメートの藤波貴久が6勝を挙げたからだった(詳細は、第3章)。ともあれ、Honda史上初の4連覇(ランプキン自身は、世界選手権史上初の7連覇)を達成、過去最強のライダーとしてランプキンは“帝王”と称えられた。

一方、Hondaは2000年から栃木県のツインリンクもてぎにおいて、日本のトライアルの悲願でもあった「世界選手権トライアル・日本グランプリ大会」を開催。日本のファンが待ち望んでいた日本GPは、2019年に20周年を迎えている。



こうした背景のもとで、次第に大きくふくらんでいった夢があった。強いHondaの優れたマシン、最強王者ランプキン、日本での世界大会。と、キーワードが並べば、Hondaに乗る日本人ライダーに活躍してほしい。世界チャンピオンになって、母国GPでもその晴れ姿を見せてもらいたい。多くの人々がそう願うのは、必然の帰結でもあった。


第3章 Honda RTLがかなえた、日本人初世界チャンピオン

前述したドギー・ランプキンの強さは、さすがトライアルというスポーツを生み出した国イギリスの、しかも親子そろって世界チャンピオンの“サラブレッド”だ。そんな印象があった。ヨーロッパで育まれ、発展したトライアル競技において、東洋の国・日本で生まれ育ったライダーが勝てるのだろうか? という疑問は、長く日本のトライアル界に渦巻いていた。1973年にHondaは国産初のトライアルバイクを世に出し、全日本選手権も始まった。その10年後の1983年は“黒船”(?)ルジャーンが、Hondaで世界一となったその技を見せつけたことによって、多くの人々がショックを受けながらも「追いつこう」ともがきはじめたのだ。

それでも、さらに10年後の1993年には5度目の世界王者(1995年に通算7度王者)となったジョルディ・タレス(ベータ/ガスガス)のように、ルジャーンをも超える才能がスペインから飛び出してくるなど、世界のトップクラスはまるで“逃げ水”のように追えば追うほど遠のいていくかのようだった。そこへ、さらに“絶望”という壁のように立ちはだかったのが、ほかならぬMontesa HRCの「帝王ランプキン」だった。しかし、人々の期待を一身に背負った日本人ライダーとして、藤波貴久もまた、かつてないほどチャンピオンに迫っていたのだった。


1. Honda QR50との出会い

Hondaは、1982年にモトクロス用の競技専用バイクQR50を発売した。Honda初の2ストローク・トライアルバイクTLM50(1983年発売)や、子ども向けの空冷2ストロークマシンRTL50S(1987年発売)もそうだが、Hondaはいつだって入門者やちびっ子たちにバイクの楽しさを提供する活動を続けてきている。そこから多くのライダーが育ち、世界に名をはせる名選手も生まれてくるのだった。件のQR50は教育用2輪車として開発され、乾燥重量35kgは子どもにも扱いやすく、49cc空冷2ストロークエンジンを搭載していた。QR50の販売計画は、国内年間3,000台だった。その3,000台のうちの1台と巡り合ったのが、当時3歳の藤波貴久だった。

父親の藤波由隆に与えられたQR50で、父の背中を追っていた少年は、やがて嬉々として父を追い越していくようになったという。「大きなバイクに乗る父をぶっちぎっていた」と、彼は自分自身で、小さい頃から負けず嫌いであったことを認めていた。


2. かつてRTL250Sで世界に挑んだ、黒山一郎との接点

そんな藤波貴久の才能が開花するのは、自転車トライアル(BTR)を始めて、2歳年上ですでにBTRの世界王者だった黒山健一と出会ってからのことだった。黒山健一といえば、この連載の第1期、第2章の2、「Honda RTL250S」で、以下のように記した。「1987年は黒山一郎がRTL250Sで世界にフル参戦、1988年もRTL250Sで2戦出場した。黒山自身の成績はふるわなかったが、同行した長男の黒山健一が自転車トライアルの世界チャンピオンを獲得、その後はトライアルの名選手として育っていくことになる」。その黒山健一に刺激された藤波は、父親の尽力に加え、黒山一郎率いるチーム「ブラック団」のヨーロッパ修行にも同行して鍛えられて、1990年には10歳でBTR世界選手権(10歳以下のクラス)の世界チャンピオンを獲得した。そうなると、「バイクでも世界一になる」と少年が思うのもまた、当然のことだった。

ここで一つの重要なポイントになるのは、黒山一郎が身をもって経験した(日本人が)世界で勝つために必要であろうノウハウが、才能を認められて欧州遠征に同行した少年たちに伝授されたことだろう。その少年たちの中には、黒山健一と藤波貴久だけではなく、小川友幸(現・全日本チャンピオン)らもいた。黒山、藤波、小川は三人ともBTR世界チャンピオンとなり、その後はオートバイのトライアルに進んで、世界選手権(もちろん日本GPを含む)や全日本で現在も活躍している。つまり、黒山一郎をバックアップしていたHondaの活動が、巡り巡って藤波や小川らにも、大きな影響を与えていたのだ。ついでながら1990年の世界選手権トライアル、たとえばベルギーGPの会場では、世界参戦を始めて間もない成田匠がTLM260Rでセクションに挑むかたわらで、黒山・藤波・小川ら少年たちがこれから挑む現場を見学していた。それはまた、Hondaの活動による影響を受けて台頭してきた若者たちが一瞬、時空を超えて交錯したかのような光景でもあった。


3. 1996年、HondaはRTLを、“フジガス”に託した

第2章で記したように、1996年はMontesa COTA 315Rのプロトタイプに乗り、マルク・コロメがHondaの王座を奪還、2ストロークで初めての世界チャンピオンをもたらした。このCOTA 315Rは、翌1997年に市販された。一方同じ1997年に、日本ではCOTA 315Rと兄弟車のHonda RTL250Rが、競技用モデルとして発売されることになった。そのプロトタイプでもあったワークスマシンRTLで、1996年は、藤波貴久が世界選手権にチャレンジすることになった。



藤波は1995年に史上最年少15歳で全日本チャンピオンを獲得した。その藤波にHondaは「日本人ライダーによる、初の世界チャンピオン獲得」を託した。1996年には16歳となった藤波自身、「日本人だから、日の丸を掲げて世界に行きたかった」と、日本製マシンで世界一を獲得する覚悟を語っていた。だが、その道は長く、とても険しかった。



1997年から藤波が倒すべき相手となった世界王者ランプキン(ベータ)は、4歳年上で経験豊富。1993年から世界ランキングに名を連ねていた。当時ランプキンは身長188cm、体重82kg。藤波は身長170cm、体重64kg。体格の差も歴然としていた。藤波が卓越していたのはアクセルの開けっぷりのよさで、Hondaの開発者も「初めて見たときは『こいつおかしいよ』と思うくらいアクセルを開けていた」と証言している。世界選手権のデビュー戦で、藤波は誰も上がれないような崖をアクセル全開で上りきって、そのまま勢い余ってコースアウトしてしまったことから、観客を大いに沸かせた。そして「アクセル全開男」を意味する“フジガス”が愛称となったことは、広く知られている。そんなフジガスの強みを活かすために、Hondaの技術者たちは、高回転がよく伸びるマシンを用意することになる。

1977年、RTL250Rは「全日本はもとより、世界選手権にも参戦可能なマシン」として発売された。開発コンセプトは「世界最軽量マシン」で、「トライアルワークス活動で得たノウハウはもちろん、スペイン・Montesa Hondaが長期に渡り世界選手権の、実戦で蓄積した技術を導入するとともに、ロードレースワークスチームのノウハウをも投入したこのマシンのエンジン、フレームのすべてを新設計とし、世界最軽量マシンの実現とコストパフォーマンスに優れたハイポテンシャルマシンとなっています」と、当時の案内にもかなり力がこめられていた。

その概要は、「HRCワークスマシンRTL、世界選手権1996チャンピオンマシンのフルレプリカ。新設計『目の字』断面アルミツインチューブフレーム、プロリンクリアサスペンションと新たに採用したパイオリ社製正立フロントフォーク、RTL250Rのために新開発された(株)ショーワ社製リアダンパーによる高次元バランスの足廻り。エンジンは低回転から高回転にいたるまで幅広い領域で常に安定したパワーを発揮する3本リング新開発ピストンと、デロルト社製キャブレターの採用。あらゆるシーンで適合する5速ギアミッション。そして、トライアルマシンとして最も重要な軽快性を生むために車輌の軽量化を徹底追及した結果、世界最軽量(72.5kg)を達成しました」と、まさにワークスマシン並みの仕様で、新設計や新開発、ヨーロッパで定評があるパーツの採用など盛りたくさんの内容で、世界最軽量を誇っていた。それまでは6速が主流だったミッションを、幅広いエンジン特性から、あえて5速としていたこと。そしてまたフロントフォーク、インナーチューブのチタンコーティング採用などが、当時は目新しかった。

このHonda史上最軽量の最強トライアルマシンは、藤波とともに1996年のデビュー4戦目に、初日1位(当時は2日間合計で最終順位となった)となる驚異的パフォーマンスをみせた。そして翌1997年の最終戦ドイツGPで、RTLと藤波は早くも初優勝を獲得。それは史上最年少17歳での初勝利で、ランキングも初年度の7位から、2年目は一気に4位まで上がった。さらに1998年はTEAM HRCが藤波専用のワークスマシンRTLを用意、同年はランキング5位となったが、翌1999年には日本人初のランキング2位へと上りつめた。



2000年からは、前記したようにランプキンがワークスチーム「Montesa HRC」で、藤波のチームメートとなった。同年ランプキンはCOTA 315Rで全20戦中17勝と1年目から圧倒的強さをみせ、Hondaはマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。



その後、ランプキンは2003年までHonda史上初の4連覇を達成、過去最強マシン&ライダーとして君臨した。しかし藤波も負け続けてはいなかった。5年連続2位となっていた間に、着実に実力をつけていった。Hondaが2000年からツインリンクもてぎで開催した日本GPでは、2002年に藤波は初の母国優勝を果たすと、シーズン4勝を記録。



さらに2003年はなんと、ランプキンの4勝を上回る6勝をマークするなど対等にタイトルを争い、逆転まであと一歩に迫った。そして2004年。4連勝を含む8勝をあげた藤波は、ついに日本人初、アジア人初の世界チャンピオンを獲得。Hondaはとうとう、多くの人々の夢をかなえたのだった。



2ストロークでも類稀なる技術力の高さを証明して、新たなる黄金時代を築いたHondaだったが、それをまた捨てなければならないときが来た。環境問題からFIMは4ストローク化の方向を示した。それに対して王者Hondaは潔く、いち早く4ストローク化へのチャレンジを開始した。欧州の他のメーカーも4ストロークマシンを発表するなどしたが、現在までたゆまぬ挑戦を続けているのはHondaだけだ。そして再びの“孤高のチャレンジ”は、さらなる高みへとHondaを駆り立てていくのだった。




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