Hondaの挑戦が生んだ、トライアル世界チャンピオンの系譜:第1期 「4ストローク、第一世代(空冷/ツインショック) モータースポーツへのあくなき情熱が生んだ、 最初の黄金時代」
第1章 Hondaが作った国産初のトライアルバイクと、走る場所。そして、文化
(文中敬称略)
そもそもの始まりは48年前、Hondaが国産初のトライアルバイク、バイアルスTL125(4ストローク空冷/ツインショック)を、1972年の東京モーターショーで発表したことに遡る。そのTL125、つまりHondaが初めて作ったトライアルバイクのお披露目から10年後、1982年にHondaのワークスマシンRTL360(4ストローク空冷/ツインショック)は、エディ・ルジャーンのライディングにより初めて、「トライアル世界チャンピオンの系譜」にその名を記すことになる。
Hondaがやってきたことは、世界チャンピオン獲得に向けてチャレンジを続けただけではなかった。日本にトライアルというモータースポーツを広め、数多くのバイクを開発して販売するとともに、走る場所やトライアルを教える講師、多くの人々を魅了するイベントなどを用意して、日本にトライアルの文化が育まれるための土壌を整えていったのだ。
つまりHondaは、まずはトライアルの普及活動に努めた。その上で世界に挑み、Hondaの高い技術力が、3年連続世界チャンピオンを生むことになったのだ。
1. 市販車の元祖、Honda バイアルスTL125
Honda バイアルスTL125は、1973年に発売された。
バイアルスとは、トライアル走行に適したバイクという意味から、BIKE+TRIALS=BIALSと名付けられた。それまでの日本には国産のトライアルバイクはなく、多くのトライアル愛好家はオフロードバイクなどをトライアル用に改造したマシンで楽しんでいた。一部のライダーは、輸入された外国製トライアルバイクに乗っていた。そんな人々にとって、TL125は待望の国産車であり、新たにトライアルを始めようという人には入門用として扱いやすい排気量とコンパクトな車体だった。また、保安部品を装備して一般公道を走れるTL125は、四輪車に積んで運ぶ以外に、ツーリングのように自走して気軽に野山へ行く楽しみ方もできた。一方、競技会で腕前を競うのに125ccで物足りない場合は、排気量アップするなどの手を加える面白さもあった。
そしてまたHondaは、「モーターレクリエーション推進本部」を発足させて、三重県の鈴鹿サーキットなど全国20か所以上に「Honda バイアルスパーク」を設置。トライアル走行を楽しむための障害物(丸太や岩場、段差など)が用意された、“乗る場所”を提供。そこで講師によるトライアルスクールが行われたり、競技大会も開催されるようになった。
1973年から1975年にかけては他メーカーからもトライアルバイクが発売され、Hondaを含めて国内4メーカーのマシンが出揃った。また、1973年は日本モーターサイクル協会(MFJ/現・一般財団法人 日本モーターサイクルスポーツ協会)が神奈川県津久井郡にあった早戸川トライアル場で、「第1回全日本選手権トライアル大会」を開催。各メーカーが力を入れ、全日本チャンピオンを競うようになり、トライアル人口が増えたことからも、“第1次トライアルブーム”と呼ばれた。
当時のTL125のカタログには、「真のトライアルス・マシンは、すぐれたロード・マシンでもある」というキャッチフレーズとともに、“トライアルの神様”と謳われたイギリスの名選手サミー・ミラーが紹介され、Hondaと契約したミラーは来日してトライアルの講習会も開いた。1975年、HondaはTL125の上級モデルとして、バイアルスTL250(こちらは競技専用モデルだった)を発売。さらに1976年は原付バイクとして親しみやすい、TL50もラインナップに加えた。
Honda TL125に関して、もう一つ忘れてはならないのは、「スコティッシュ6日間トライアル」(略称SSDT)という、スコットランドの荒野を6日間にわたり駆け巡る世界一過酷なトライアル大会に挑戦したことだ。このSSDTは1909年から始まり、今日まで100年以上続いている伝統的な耐久要素の強いイベントで、ここでの結果がマシンやライダーの優秀さを証明するものとなっていた。そのSSDTに、1973年はTL125で西山俊樹、万沢安夫(現・万澤安央)、成田省造の3人がチャレンジ。3人とも見事完走して、入賞を果たしたのだった。そして、その後も現在に至るまで、多くの日本人ライダーがSSDTに挑んでいる。
さらに特筆すべきは、Honda TL125による万澤安央と成田省造のSSDT挑戦が、日本最大のツーリングトライアル「出光イーハトーブトライアル大会」(岩手県)の誕生につながり、今日まで40年以上続く(注・2020年の第44回大会は、新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、史上初めて中止となった)長い歴史を誇っていることだ。
Hondaのモーターレク講師だった万澤と成田は、SSDTに出場した経験と感動から、日本版SSDTの開催をめざした。Hondaの講師として日本各地を回った中で、岩手県の美しく雄大な自然と、ライダーたちを温かく受け入れてくれる地元の人々に出会った。そしてまた、“第1次トライアルブーム”は1976年には下火となり、その一因は急速なブームにより「トライアルは難しい」というイメージも生まれ、継続しにくくなっていたようだった。そんな時だからこそと、万澤や成田らは1977年に「第1回イーハトーブ2日間トライアル大会」を開催。山から海へと岩手県を横断し、2日間かけて往復する、道なき道も進むアドベンチャー気分を味わえる長距離コースのトライアルは大人気となった。その後、入門クラスなども用意され、1996年の20周年記念大会には過去最高833名の参加者を集めた。そして、町おこしや村おこしなどとも結びついて、全国各地でツーリングトライアル大会(略してツートラ)が開催される、“ツートラブーム”が沸き起こった。
こうした背景のもと、Hondaは1981年に“トレッキングバイク”として、バイアルスTL125を発展させた「Honda イーハトーブTL125S」を発売した。
2. 市販車のベストセラー、Honda TLR200
「イーハトーブTL125S」は好評だったため、Hondaは1983年に新たなTL125とともに、TLR200(4ストローク空冷/ツインショック)を発売した。トリコロールのカラーリングも美しい、このTLR200は大好評で、ベストセラーとなった。TLR200の発売に際しては、当時Hondaに乗り世界選手権で戦っていた服部聖輝(はっとり・きよてる)が、このバイクで1983年のSSDTに挑戦、見事に151cc~200ccクラスの優勝を成し遂げて、大きな話題を集めた。
1983年はまた、HondaがRTL360で世界チャンピオンを獲得したベルギーのエディ・ルジャーン(詳細は第3章に)を日本に招き、ルジャーンは驚異的なテクニックの数々を披露して日本のライダーたちにショックを与えた。それは、“ルジャーン・ショック”とも呼ばれた。
同時期に、Hondaは日本初の「インターナショナルスタジアムトライアル大会」を東京都下の「多摩テック」で開催。こちらも大人気となり、翌1984年からは三重県の「鈴鹿サーキット」でも開催された。その後は、1985年に「インターナショナルスーパースタジアムトライアル」が東京の国立代々木競技場第一体育館(屋内)で行われ、それがフジテレビ主催の「国際スポーツフェア」の競技種目としてテレビ放映されたりもした。さらに、スタジアムトライアルの全日本選手権シリーズも1991年にスタートして、全国各地で開催された。
1983年、Hondaはルジャーンを通じてトライアルというカテゴリーでの“世界”への注目を高め、トライアルを町中で観戦することができる魅力的なイベントを誕生させた。そしてまた、多くの人々に愛されるバイク(注・TLR200は公道も走れるため、トライアルだけではなく、多数の一般的なライダーにも親しまれた)を登場させたことにより、トライアルは第2のブームを迎えることとなったのだ。
第2章 Hondaの市販レーサーが生んだ、数々の栄光
第1章でご紹介したHonda バイアルスTL125やTLR200は、一般公道も走れる市販車として、社会にトライアルの楽しさを広め、トライアルへの認知度を高めた。一方、第2章ではHondaの代表的なトライアル市販レーサーと、それらのマシンが生んだ数々の栄光についてお伝えしたい。
1. 一世を風靡した、Honda TL200R
Hondaが1973年に発売した市販車バイアルスTL125のエンジンをベースに、競技専用の市販レーサーとして飛躍的に性能を向上させたのが、RSC(Racing Service Center。1982年に設立された現在のHRC、Honda Racing Corporationの前身)から1978年に発売されたTL200Rだった。それ以前の市販レーサーであったバイアルスTL250(1975年発売)に対して、極めて軽量かつコンパクトに仕上げられ、200ccという排気量も多くの日本人には扱いやすかった。レベルアップとともに、排気量を上げていくことができることも、市販レーサーならではの魅力となっていった。
TL200Rはその後、TL200RII(1979年)、RS200T(1980年)、RS220T、RS250T(1983年)へと発展していった。このRS250Tまでは全て、4ストロークエンジン&ツインショックだった。
1973年に始まった「全日本選手権トライアル大会」では、1977年に近藤博志がHondaとして初めての全日本チャンピオンを獲得、1979年まで近藤はHondaで史上初の3連覇を達成。続く1980年は丸山胤保が王者となり、Honda初の4連覇を実現した。
さらに1982年、Hondaは当時“少年”というニックネームで呼ばれていた当時23歳の若手、山本昌也を契約ライダーに抜擢。山本は1982年から1986年まで、史上初5連覇の金字塔を打ち立てた。
2. 80年代最後の4ストロークとして花道を飾った、Honda RTL250S
Hondaが1985年に発売したRTL250Sは、エンジンはお馴染みの4ストロークを継承、リアサスペンションはプロリンクへと進化している。時代は2ストロークが主流となっていたが、2ストロークに乗るライバルたちを相手に、全日本では山本昌也が前記したように5連覇を果たした。その山本によって華々しい活躍をしながら、80年代最後の4ストローク&一般のライダーが手にすることができるレーサーとして惜しまれながら姿を消していったのが、RTL250Sだった。
近藤博志や山本昌也は、世界にも挑戦。近藤は1977年のトライアル世界選手権・終盤戦に、Hondaのワークスマシン、RTL305でスポット参戦。思うような結果は残せなかったが、このRTL305はその後、RTL360へと進化することになる。その間、海外のライダーとしては、ニック・ジェフェリーズやブライアン・ヒギンズ、ロブ・シェファードらがRTLで世界に参戦し活躍していた。」
また、前出の服部聖輝は、1980年から日本人としてHondaで初めて世界選手権にフル参戦。シーリー・Honda TL200E改250を駆り、最終戦となる第12戦チェコスロバキアGPでは9位に入賞、日本人初の世界選手権ポイント(当時は10位以内にポイントが与えられた)を獲得して、初めての世界ランキング28位に名を連ねた。翌1981年と1982年の服部はHonda RTL360でフル参戦を続けたが、望むような結果にはつながらなかった。しかし、1983年の服部は、Honda TLR200改250で挑んだ第4戦アイルランドGPで10位入賞、世界ランキング24位となった。また、服部は1980年のSSDTでシーリー・Honda TL200E改250を操り、日本人最高位の16位に入賞、この記録は現在も破られていない。
一方、山本昌也は1984年のトライアル世界選手権・終盤戦に、発売前のRTL250Sでスポット参戦。当時は、まだツインショックのマシンも多く、ツインショックからモノショックへと移行する過渡期にあった。そこで、RTL250Sから導入されたHonda先進のプロリンクは、山本の卓越したライディングとも相まって、初参戦ながら6位という好成績で、デビュー戦から世界に衝撃を与えたのだった。
この年、山本は2戦出場して、世界ランキング21位。翌1985年もRTL250Sで世界選手権に5戦出場した山本は、同25位となっている。また、同年は山本弘之もRTL250Sで世界選手権に2戦出場、ポイントには届かなかったが、日本のトップライダーたちの世界挑戦への意欲はかつてないほど高まっていた。1987年は黒山一郎がRTL250Sで世界にフル参戦、1988年もRTL250Sで2戦出場した。黒山自身の成績はふるわなかったが、同行した長男の黒山健一が自転車トライアルの世界チャンピオンを獲得、その後はトライアルの名選手として育っていくことになる。
当時はまだ、日本人による世界チャンピオン獲得は遠い夢だったが、Hondaのバックアップによって世界挑戦への道はつながっていたのだ。そしてまた、その歴史が、この第1期から、第2期の藤波貴久へと継承され、結実していくことになるのだった。
第3章 生粋のワークスマシン、Honda RTL360が、史上初の快挙を達成
第1章の市販車から、第2章の市販レーサーへと話を進めてきたが、第3章はいよいよ世界の頂点をめざすワークスマシン、Honda RTL360の登場だ。
1. 始まりは、Honda RTL305
このRTLは、最初から360だったわけではなく、当初はRTL305(開発名、A2E)が作られた。1973年にバイアルスTL125、1975年はバイアルスTL250を発売したHondaは、次のステップとして「どうせやるなら、世界の頂点をきわめよう」ということになった。そのプロジェクトの総括責任者としてA2Eをゼロから開発したのが、当時の開発責任者だった田中英生だった。以下は以前に田中が取材に答えた内容を要約したものである。
当時のトライアル世界選手権は、2ストロークの250ccが主流だったが、Hondaとしては4ストロークにこだわりがあり、4ストロークで対抗するには305ccが必要とのことでプロジェクトはスタートした。もともとエンジン設計担当でRTLのエンジン部門のプロジェクトリーダーにもなった田中は、「最低地上高は高く、シート高は低くしたい。それにはエンジンの高さは低いほどいい。高さを抑えるとその分多少前後に長くなるが、なんとかいけそうだから、とにかく上下をつめるように」という上司からの指示を受けて、理想的なトライアル用のエンジン作りに着手した。
TL250のエンジンは、オフロードモデルのSL250のエンジンがベースで、基本的には大きすぎた。それをベースに使うことはなく、最初からトライアル専用設計のエンジンを作ることになった。計算により、305ccならばほどほどの低い回転で2ストロークの250ccと同じくらいのトルクが出るという性能レイアウトができた。たとえばどのくらいのトルクを何回転くらいで出したいとか、あるいは最高出力はどのくらいで、あまり回転を上げたくないとか、色々な条件を入れて計算していくと、ボアやストローク、バルブの径などのだいたいの見当がつく。それをベースに田中が設計図を書いたという。A2Eを試作して、初めて始動させたエンジンは、ストストストッと回って感激したそうだ。やや大柄でホイールベースは長く、重心の位置も高くて、全体的にちょっと重いという一面もあったが、とにかくバランスがいい、1号車としては良く走る車となった。
このRTL305のエンジンは、軽量化を狙いボルト類をなくすため、アッパークランクケースとシリンダーが一体式になっていた。シリンダー内にスリーブはなく、マグネシウムにハードクロームメッキが施されていたという。シリンダーだけではなく、クランクケースまで短いサイクルで定期的に交換するという、まさにワークスマシンならではの割り切った造りだった。
田中は、1976年のSSDTに、初めてRTL305を持って行った。田中はアドバイザーとなり、サミー・ミラーを監督として、イギリス人ライダーのニック・ジェフェリーズとブライアン・ヒギンズを雇ったチームを支援した。結果はニックが9位、ブライアンが12位で上出来だったという。そして翌年、翌々年はどうしようかとなった。その頃は280ccや350ccの2ストローク車がどんどん出始め、低速トルクや瞬発力がないと高い段差は上がらないなど、当時の様々な技術の動向があり、305ccでは足りない、360ccにすることになったのだった。
2. RTL360で結実した、Hondaの野望
Hondaは、ワークスマシンRTL360を、天才ライダーと謳われたベルギーのエディ・ルジャーン(1982年当時21歳)に託して、1982年から1984年まで3年連続世界チャンピオンを獲得した。その優勝回数は、1982年は全12戦中8勝、1983年も全12戦中8勝、そして1984年は全12戦中6勝。3年間で合計22勝を記録した。この圧倒的な強さで、Hondaはマニュファクチャラーズタイトルを3年連続で獲得したのだ。
1983年はまた、HondaがRTL360で世界チャンピオンを獲得したベルギーのエディ・ルジャーン(詳細は第3章に)を日本に招き、ルジャーンは驚異的なテクニックの数々を披露して日本のライダーたちにショックを与えた。それは、“ルジャーン・ショック”とも呼ばれた。
RTL360は、1982年は赤一色のカラーリングで、エンジンはシルバー。1983年以後は、1983年に発売された市販車のTLR200と合わせるかのように、トリコロールになり、エンジンはブラックに塗装。サイレンサーはステンレス製になり、名称もRS360Tとなった。空冷4ストロークOHC単気筒2バルブの360ccエンジンを、スチールパイプのダイアモンドフレームに搭載。最高出力は20馬力以上/6,000回転、最大トルクは3.01kg-m/4,000回転。ミッションは5速。乾燥重量88kg。ブレーキは前後ともドラムブレーキだったことが、時代を感じさせる。
なお、RTL360は前記したように1983年にRS360Tと名称変更されたが、1983年の1月23日に多摩テックで初めて開催された「GPA’83インターナショナルスタジアムトライアル」にエディ・ルジャーンが出走した際は、1982年のRTL360で大会に臨んだ。
RTL360およびRS360Tのリアサスペンションはクッションが二本あるツインショックだったが、1984年に3連覇した翌1985年は、モノサス・プロリンクの新型RS360Tへと進化した。HRCは次世代の専用エンジンを作ってプロリンクを採用した、新型RS360Tを開発して、1985年の世界選手権第1戦スペインGPに投入した。だが、このニューマシンは熟成されないまま舞台から姿を消すこととなった。
それと前後することになるが、1984年の全日本選手権第7戦北海道大会に、Hondaはより軽量かつコンパクトなワークスマシン、RTL250SW(プロリンク)をデビューさせた。第2章の「市販レーサー」でも記したように、山本昌也は市販レーサーRTL250SのプロトタイプでもあったRTL250SWで1984年のトライアル世界選手権・終盤戦にスポット参戦、デビュー戦から6位という好成績で、世界に衝撃を与えた。このRTL250SWは市販を前提とした第二世代のワークスマシンで、その後は290ccくらいまで排気量が上げられていったという。1986年はイギリスのタバコメーカー、ロスマンズがスポンサーになり、“ロスマンズカラー”のRTL250SWでエディ・ルジャーンやスティーブ・サンダースが王座奪還をめざした。当時は、ロスマンズカラーの市販車RTL250Sや、TL125ロスマンズも発売され、人気を集めていた。ロスマンズという大きなパートナーの獲得は、トライアルの知名度を上げることにもなった。Hondaによるルジャーンとの世界選手権への参戦は、1987年まで続けられた。
話をRTL360に戻すと、「RTL360は作り方がスペシャル過ぎて、とても市販するようなレベルのバイクではなかった」ということだ。まさに、誰もが憧れる“垂涎のワークスマシン”だったわけである。
Hondaは、RTL360(RS360T)で世界選手権3連覇を成し遂げた。それは、1976年から1978年に3連覇したスペインのブルタコに並ぶ、史上2度目の記録となった。だが、1975年にスタートしたトライアル世界選手権において勝ち続けてきたのは、ずっと2ストロークマシンだった。その歴史を刷新したRTL360(RS360T)こそ、初めて4ストロークで世界を制覇した、Hondaのこだわりと技術力の高さが導き出した栄光のマシン。2ストローク全盛時代に、敢えて4ストロークで挑み、史上初の快挙を達成したのだ。
ここで一つ気になることがある。それは、この第3章の冒頭でも記した、「バイアルスTL125、バイアルスTL250を発売したHondaは、次のステップとして“どうせやるなら、世界の頂点をきわめよう”とRTL305を作り始めた」というくだりである。
今振り返ってみても、トライアル入門用とも言えるTL125と、競技用マシンとして華々しい結果にはつながらなかったTL250。それらの次の段階として、いきなり世界の頂点をめざした。その世界レース挑戦への意欲は、いささか飛躍的で、“野望”とも言えるかもしれない。しかしそれは、かつて本田技研創立5年余りで全世界の覇者をめざした、無謀とも言われた挑戦に遡るかもしれない。1954年に「マン島TTレース出場宣言」(世界一への挑戦状)を公表して、ついには世界を制した、Hondaの創始者である本田宗一郎の快挙を彷彿させる。常人には突飛とも思えるかもしれないほどのチャレンジスピリット、技術者魂と目標の高さがあってこそ、伝統的なHondaの強さが磨かれてきたのだろう。
第1期の4ストロークで大願を成就したHondaは、第2期は2ストロークを探求していくことになる。