Hondaダカールラリー挑戦の歴史 Part 1(pre-1989)
第1期(1989年以前)の戦いぶりを振り返る
ダカール参戦開始。1982年に果たした初優勝
1978年12月26日。道路を走れる車両ならばカテゴリーを問わず参加でき、真冬のフランス、パリから地中海を隔てたアフリカ大陸に上陸。その後は北西部に拡がるサハラ砂漠を走破し、大西洋岸にある街、セネガルのダカールまでを3週間で約1万kmという距離を走る壮大な冒険ラリーが始まりました。それがパリ~ダカール・ラリーです。
四輪クラスは街中を行く小型車から、砂漠を越えるにふさわしい四輪駆動車はもちろん、トラック部門もあります。
二輪部門には航続距離を伸ばすために搭載された大型の燃料タンクや、主催者から支給されるラリーのルートを記したロードブックを取りつけるためのバインダーのようなものを貼り付け、砂漠を渡るための方位磁石を取りつけたオフロードバイクがエントリーし、パリのトロカデロ広場を後にしました。
モータースポーツがシーズンオフとなり、クリスマスから新年へと話題が移る中、壮大なラリーは注目を集めることになります。当初、参加するのはアマチュア選手が中心でしたが、FIA(国際自動車連盟)、FIM(国際モーターサイクリズム連盟)の公認競技となった1980年の第3回大会からは、メーカー系チームとプロのライダー、ドライバーが参戦することとなり、パリ~ダカールの注目度はさらに増していきました。
お膝元であるフランス、イタリアなどヨーロッパでは人気の高いデュアルパーパスモデルに改造を施し、国境、文化、大陸を越えて行くラリーへの注目が多いに高まります。ショップにはラリーバイクのような装備を持ったデュアルパーパスモデルが並びだし、その人気はさらに加熱していきました。
Hondaがこのラリーで初めて勝利を収めたのは、1982年の第4回パリ~ダカール・ラリーでした。二輪、四輪(トラックを含む)合わせて400台近い参加となったこの年、Hondaと共に2年目の戦いとなったフランス人ライダーのシリル・ヌブーは、XR500Rベースのマシンに乗り優勝を果たしました。そのマシンは、XL250R PARIS-DAKARという名で市販されたモデルのモチーフとなったことでも知られています。
この後、他メーカーのラリー用に照準を合わせて開発されたマシン、より大きな排気量を持つマシンなどが台頭した結果、Hondaは勝利から遠ざかります。そのころ、フランスなどではラリーの成績がそのままストリートバイクの売り上げに響くほどパリ~ダカール・ラリーの存在は大きくなっていました。
この後、他メーカーのラリー用に照準を合わせて開発されたマシン、より大きな排気量を持つマシンなどが台頭した結果、Hondaは勝利から遠ざかります。そのころ、フランスなどではラリーの成績がそのままストリートバイクの売り上げに響くほどパリ~ダカール・ラリーの存在は大きくなっていました。
“勝つための”ワークスマシンNXR750の開発
そこでHondaは一つの決断をします。1986年のパリ~ダカール・ラリーに勝利するため、1984年10月、“勝つための”ワークスマシンの開発をHRCに指示。開発者達は慌ただしく1985年のラリーを現地視察に出向きました。ロードレース、モトクロス、トライアル──そのどれともキャラクターが異なるラリー用マシン造りのコンセプトを見つけるべく、パリ~ダカール・ラリーを追いかけたのです。そこで見た過酷な環境を踏まえ、マシンコンセプトを決めました。
それは軽く、小さく、疲れにくく、壊れないタフネス、メンテナンス性の良さ、高速安定性と低中速での操縦性に優れる車体、扱いやすいエンジン特性と燃費性能。その上でライバルを打ち負かす高いポテンシャルを持つこと。
そして、なにがなんでも信頼性だ。完走するマシンでなければ勝負にならない。
現地から持ち帰ったテーマから生まれたのがパリ~ダカール・マシン、NXR750でした。
当時のラリーは、スペアパーツを運ぶトラックもラリーに参加し、競技者として厳しいルートを走ることが求められました。ミスコースや砂丘で砂に埋もれてスタックすると到着も遅れてしまいます。ラリーは朝スタートし、その日の目的地まで短い日でも500km、長い日では1000kmを走ることを繰り返しながら進みます。そのため、サポートトラックがラリーのビバーク地への到着が遅くなると、その分、整備する時間は少なくなります。そればかりか連日、ライダーはもちろん、メカニックも移動を繰り返すため、整備性の善し悪しはそのままラリーを戦う性能と言えるのです。
NXR750デビュー戦での成功とチャンピオンチームとしての進化
サーキットでのラップタイムというような定量的な物差しでは計れないのがラリーです。さらに砂嵐などの天候要因もそれに加わることもあり、一筋縄ではいかないのがパリ~ダカール・ラリーの特徴でもありました。
1986年、第8回パリ~ダカール・ラリーも正にこのラリーを象徴するような中で始まりました。アフリカに渡り、最初の競技区間(スペシャルステージ)での出走順を決めるプロローグランは雪の中で行われました。距離はもちろん、当時、歴代もっとも過酷と言われたルート設定に多くの参加者が戦列を去りました。完走率の低さで知られるパリ~ダカール・ラリーにおいて、NXR750を駆るシリル・ヌブーは、1月8日のステージでトップに立つと、クレバーなレース運びで見事ダカールのフィニッシュに首位でゴール。2位にはチームメートのジル・ラレイが入り、デビュー戦となったラリーで成功を収めたのです。
続く1987年。初年度に出た課題をアップデートしたワークスマシン、NXR750で2度目のパリ~ダカール・ラリーに挑みました。マシンはライダーからの要望もあり、より静粛性を高めたマフラーの採用や、コントロール性に優れたリアディスクブレーキの採用した他、ルートを確認するナビゲーションアイテムの表示内容やレイアウトを変更。また、より快適性を向上したカウルデザインとタンク回りのデザイン性も合わせて見直しました。
この年、ライバルにリードされたまま後半戦に突入。カジバのユベール・オリオールは2度の優勝経験を持つだけに手強く、30分程あったヌブーとの時間差を詰めます。1月16日、砂の深いステージで転倒したヌブーは、ラリーのルートを記したナビゲーションアイテムにダメージを負い、単独走行が難しい状況になります。その影響でそのタイム差をはき出し、ライバルに首位を明け渡すことに。1月19日のステージで、トップとの差を10分以下にばん回したものの、ダカールは間近。残された競技区間の距離は長くありません。ゴール前日、1月21日。ライバルの転倒、負傷によるリタイアという結果により、辛くもヌブーとNXR750はラリーを制したのです。
翌1988年。パリ~ダカール・ラリーは10回大会となります。また、参加車両が初めて600台を越えるなど、その人気にとどまるところを知りません。
3年目となった挑戦は、さらに進化、熟成したNXR750で参戦。また、これまでフランスホンダを軸にしていたワークスチームを、イタリアホンダにも拡大し、計7台のNXR750がラリーに参加しました。この年、フランスホンダチームは不運にもトラブルに見舞われ成績はふるわなかったものの、イタリアホンダから参戦したエディー・オリオリが活躍。後半、トップグループの多くが迷ったチェックポイントをオリオリが通過し、逆転をするなどしてトップを奪取。NXR750をダカール3連覇へと導いたのです。
Hondaが4連覇を達成、そしてワークス参戦活動の終了
4年目の参戦となる1989年。NXR750は初年度1986年と同じタイトルスポンサーカラーに塗られ、パリを後にします。その中身は熟成を重ねたのはもちろん、マシンコンセプトをさらに磨き、NXR750史上もっとも戦闘力を磨いての参戦となりました。このころになるとライバルチームの戦闘力もさらにあがり、チャンピオンチームとしてもさらなる進化が求められたのです。
ラリーは、ライダー、マシン、チーム、そして運が複雑に絡み合う難しさを見せました。その中、初年度からNXR750を走らせてきたジル・ラレイがこの年の優勝を飾り、NXR750とHondaは4連覇を達成しました。
しかしその道は必ずしも平坦ではありませんでした。12月25日にスタートを切ったラリーで、ラレイは途中、トップと53分差を抱え込んでしまいます。しかし、10分から15分ほどにその差を縮め、16日目にトップに立つと、逆に2位以下に30分ほどの差をマネジメントしながら走りきったのです。
この1989年はNXR750をモチーフにした市販モデル、Africa Twinが市販車無改造クラスにも参戦、見事クラス優勝を果たしました(ちなみに翌1990年にも勝利)。
1989年のラリーで、Hondaはワークス参戦にピリオドを打ちますが、多くのファンに記憶されることとなったのです。