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藤波貴久 26年の軌跡 Part2 ~ライバル、そして自分との闘い~

2021年9月19日、26年の世界選手権参戦に終止符を打った藤波貴久。日本人唯一のトライアル世界選手権でのチャンピオンを獲得したレジェンドの半生を振り返る。今回はチャンピオンを獲得後の2005年から2013年までの物語

藤波貴久 26年の軌跡 Part2 ~ライバル、そして自分との闘い~

ゼッケン1番をつけた2005年。変わったのはゼッケンだけではなかった。藤波貴久が駆るのは、発売が開始されたばかりのCOTA4RT(ホンダRTL250F)。世界的な排気ガス浄化の流れから、トライアルも4ストローク化の動きが始まっていた。その先べんをつけて、Repsol Honda Teamの3人(フジ、ドギー・ランプキン、マーク・フレイシャー)が4ストロークマシンに乗って世界選手権に参戦した。

フジが初めて世界選手権に参戦した1996年は、COTA 315R(ホンダRTL250R)のプロトタイプが完成した年で、その開発は2004年を最後に終了した。フジはこのマシンのデビュー前から最終年まで、すべてを走り続けたことになる。2005年からのCOTA 4RT(ホンダRTL250F)は、2004年のシーズン中に市販車の仕様が決定し、フジらが乗る実戦用マシンの開発は、2004年シーズンが終わってから本格的にスタートした。全くのニューマシン、2ストロークから4ストロークへの乗り換え、チャンピオンとしての緊張感。ゼッケン1を背負うフジの前には、新たな戦いばかりが待ちかまえていた。

チャンピオンを獲得したばかりのフジは、世界トップのポテンシャルを備えていた。しかし、十分な慣熟や調整ができたとはいえないマシン体制で、フジの世界選手権は苦しい戦いが続いた。それでもゼッケン「1」のフジの活躍を期待する人は多かったし、特に日本GPでの凱旋試合は多くの日本のファンがフジの走りを楽しみにしていた。そういうとき、フジには不思議なパワーが生まれる。日本GPは、フジにとってラッキーラウンドだ。フジのパフォーマンスで沸く観客の声援が、フジの力になって返ってくる。



しかし2005年、2006年と、壮絶なタイトル争いを繰り広げながらも、ランキングは2年連続2位となった。2006年はケガや体調不良もあって、本来のポテンシャルを発揮できなかったのは残念だったが、それでも、フジとアダム・ラガ{Adam Raga}のタイトル争いには、誰も加わることができなかった。この2年間、フジは7勝をあげている。

翌2007年、大きな変化が訪れた。トニー・ボウの加入だ。ボウは初めて乗るCOTA4RTでまずインドアチャンピオンを獲得し、続けてアウトドア世界選手権も、ほぼ圧勝でタイトルを獲得した。チームのエースであり、ライダーとしても先輩であるフジは、これは少なからずショックだった。世界タイトルを獲得するには、卓越した技術に加えて、さまざまな経験が必要だ。フジ自身、長い時間をかけて実力を蓄えてきた。しかしボウは、それをあっという間に克服して王座についてしまった。この年、フジは7年ぶりに未勝利に終わった。



チームメートにして、最大最強のライバルとして目前に現れたボウ。フジは、ボウに負けまいと必死のトレーニングを続けた。フジの勝っている部分はあった。もちろんボウが勝っている部分もあった。フジはボウから学べるものを学び、盗めるものを盗もうとした。それが結果的に、フジらしいライディングを失いかけることになった。

ついに未勝利で終わった2007年、やがてフジは、ボウのライディングを追うばかりではなく、もともと持っているフジらしいライディングをより発揮させるように、やり方を改めた。ボウはボウ、フジはフジだ。そして2008年、2年ぶりの勝利を得た。以後フジは、2011年まで世界ランキング3位をキープする。1999年から13年続けて、トップ3をキープしていることになる。



しかし長く続けているということは、その間に若いライダーも次々に台頭してくるということだ。そしてそれは、彼らの挑戦も甘んじて受けなければいけないということでもある。2012年、ランキングは5位に。以降2015年まで、ランキング5位が続く。しかしその間、年に何回かの表彰台を獲得していたし、2013年日本GPでは優勝もした。トライアルGPで勝利をつかむのは、並大抵ではない。現役ライダーの中では、フジをはじめとするチャンピオン経験者と、ジェロニ・ファハルド、アルベルト・カベスタニー、ハイメ・ブストしか勝利経験がない。フジのフジガススピリットは、まだまだ衰えてはいない。

しかし2013年シーズンオフ、悪夢のアクシデントがフジを襲った。トレーニング中に前十字じん帯を損傷してしまったのだ。選手生命の危機ともいえる負傷に、しかしフジは敢然と立ち向かった。フジの第一義は、トライアル活動を続けることだった。シーズンオフに手術を受けていては、アウトドア開幕に間に合わない。手術は後回しにして、乗れない間に全身の筋力トレーニングを強化し、じん帯を守るための筋力アップに、特別メニューも組んだ。世界選手権参戦18年目、フジは、自身の可能性を信じていた。


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