Formula 1

1967年、モンツァでの勝利

1967年9月10日、モンツァ・サーキットで行われたイタリアGPでの優勝が、HondaにとってF1での2勝目になりました。今回は、今週末レースが行われるのと同じ地で54年前に挙げたこの勝利について振り返ります。

1967年、モンツァでの勝利

HondaのF1初勝利は、1965年のメキシコGP。エルマノス・ロドリゲス・サーキットでした。超ロングストレートを持つこのコースでの勝利が、当時のHondaのF1マシンの特長を示していたのかもしれません。

2勝目となったモンツァも、“the Temple of Speed=スピードの殿堂”の異名を持つ、言わずと知れた超高速サーキットでした。


ジョン・サーティースと中村良夫監督
ジョン・サーティースと中村良夫監督

1967年、二輪・四輪の両世界選手権でチャンピオンとなった史上唯一のドライバー、ジョン・サーティースがHondaへ加入。F1参戦4年目を迎え、悲願の2勝目、そしてさらなる飛躍を目指すHondaにとって、チャンピオン経験者の知見を役立てる狙いがありました。この年からファイアストンタイヤへの変更もあり、新たなドライバーの加入とともに、チームは変革の時を迎えていました。そして、イタリアGPではさらに大きな進化を遂げます。

それが、新型マシン「RA300」の投入でした。それまで使用していたRA273の3リッターV12エンジンを使用するものの、シャシーは全くの新型。このイタリア・モンツァがデビュー戦となりました。

新型マシンは、さまざまなテストを行って投入されましたが、実際のレースウイークを迎えるのは初めてということもあり、どんな問題が起きるかは未知数で、特に過酷なコースであるモンツァでは何が起きてもおかしくない状況でした。しかし、チームはトラブルに上手く対処し、サーティースは予選9番手と、決勝へ望みを持てる位置につけます。


シーズン第9戦で投入されたRA300
シーズン第9戦で投入されたRA300

好パフォーマンスを発揮したRA300とサーティースでしたが、さらに驚くべき結果が待っているとは、誰も考えていませんでした。

予選では、ジム・クラークが2番手のジャック・ブラバムに0.3秒差をつけてポールポジションを獲得。3番手には0.8秒以上という大差をつけていました。しかし、クラークがパンクを喫して周回遅れになったことで、レースは混戦の様相を呈します。

クラークは猛烈な追い上げを見せてサーキットを沸かせますが、もう一人、観衆を盛り上げたのがサーティースでした。フェラーリでワールドチャンピオンを獲得したこともあり、ティフォシ(イタリアの熱狂的なファン)たちは、サーティースがポジションを上げる姿に熱狂していきます。


レース中、次々とポジションを上げるサーティース(カーナンバー14)
レース中、次々とポジションを上げるサーティース(カーナンバー14)

レース終盤、クラークがリードを奪い返す中、サーティースはHondaエンジンのパワーを活かしてブラバムを抜き去り、2番手に。表彰台争いはこの3台に絞られました。

そして迎えた最終ラップ、クラークは再びのマシントラブルに襲われて後退。サーティースが首位に立ち、RA300はデビュー戦での勝利が目前に迫ります。しかし、ブラバムもしぶとく食い下がり、勝負は最終コーナーでの戦いにもつれ込みました。

最終コーナーは高速の右コーナー“パラボリカ”。ここで前に立とうとしたブラバムがアウト側に膨らみます。そのスキを見逃さなかったサーティースはイン側からアクセルを全開で立ち上がり、Honda V12エンジンのパワーをフル活用。追いすがるブラバムを振り切り、0.2秒差でチェッカーフラッグを受けて勝利をつかみ取りました。


チェッカーフラッグの瞬間
チェッカーフラッグの瞬間

結果的に、これがサーティースのF1キャリア最後の勝利となり、Hondaにとってもフルコンストラクターとしての優勝は2006年まで間を置く形になりました。しかし、そうした記録以上に、この日のレースは、F1で最もエキサイティングな戦いの一つとして、人々の記憶に今も残っています。


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